第一章 十五歳 春

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「誰か救護室まで堂島連れてって!」 叫び声が聞こえて振り返ると、運動会実行委員の女子が倒れ込んだ堂島を支えている。堂島は女子生徒の中でも線が細く小柄で、身体も弱いらしかった。今日までにも運動会の練習を何回か欠席している。 タイミングの悪いことに、クラスメートの男子の大半は二つ先までの競技のために入場ゲートの方へ向かってしまっていた。現在一年六組の応援席にいるのは女子の障害物走を終えて戻ってきた女子たち、全体競技しか出番のない数名の生徒たちだった。僕は全体競技以外にも出番があったけれど、その競技はまだずっと後だった。 「俺連れて行くよ」 「マジ?」 と、答えながら運動会実行委員の女子――川口はちらりと堂島を見やった。なので、僕は付け足す。 「堂島が嫌じゃなければ」 「堂島が、っていうか多分堂島を背負って救護室まで行けるのが秋吉しかいない気がするから頼んでいい?」 川口の言う通り、単純な背格好で言えば、応援席に残ってる男子たちよりも僕の方が大柄ではあった。 「分かった。堂島、掴まって」 僕が堂島に背中を向けて屈むと、堂島は素直に僕の肩から首に腕を回して掴まった。体重が乗ったのを確認してから、僕は立ち上がって堂島を背負った。 救護については詳しくないけれど、こういうときはあまり揺らさない方がいいんだろう。そう判断して、僕は振動を与えないようにそろりそろりと救護室に向かって歩き出した。 救護室と呼んでいる場所は、普段は保健室と呼んでいる場所だ。この学校は広いので、運動場からは車道を挟んで坂を下り、校舎に入ってからは体育館方面、つまり昇降口から一番奥まで歩かなければならない。僕はたっぷり十分はかけて救護室まで歩いていった。堂島を背負ったまま、行儀悪く足で救護室の扉を開ける。 「失礼します。病人です」 「病人?」 「応援席で具合悪くなったみたいです。自分は実行委員に頼まれて運んできただけなのですが」 「分かった、ありがとう。今場所空けるから」 養護教諭は長椅子の上に乱雑に出されていた毛布や救急箱をどけた。僕はそこに堂島を下ろした。 「堂島、無事か」 無事じゃないからここに連れてきたのだけれど、一応は確認する。 「うん、ありがとう」 具合が悪いなりにも堂島がそう答えたので、僕はお役御免とばかりにそのまま救護室を後にしようとした。 そのとき、救護室の奥の椅子に座っていた人影がこっちを向いて、目が合った。 郷原だった。 「この前の」 郷原は僕を見つめたまま口を開いた。 僕はどう答えたらいいのか迷った。やあ、郷原さんだよね、知ってるよ、とフレンドリーに返すべきか、それとも同じようにややクールな温度感で返答すべきか……結局、そのまま黙って見つめ返すに留まってしまった。 「体育の……走り幅跳びの……最後の人!」 思ったよりも郷原は一生懸命に僕に向かって喋った。 名前が出てこないらしく、僕を指さしたまま苦しそうに口をパクパクさせている。 それを見て、僕はようやく返事をすることができた。 「秋吉だよ」 「そう!」 「そう、って。知らなかったでしょ」 「だから、走り高跳びの最後の人」 「そうだけど」 「合ってるでしょ」 郷原が得意げに口角を上げて笑って見せた。 「あなたは郷原さんだよね」 「えっ、なんで知ってるの?」 今度は目を丸くした。よく表情が変わる。ちょっと意外だ。 それまでたった一度か二度見かけただけの郷原に、一方的に抱いていたクールなイメージが崩れていく。 「知ってるっていうか、いろんなところで名前を聞くから嫌でも覚えるよ」 「えっ」 「……嫌でもというのは言葉の綾であって、あなたの名前を聞くのが嫌だということではない」 「そう、よかった」 郷原の顔が曇ったので慌てて弁明した。不用意な言葉だった。 そのまま会話が途切れてしまった。 何かフォローをしたほうがいいかと思って、僕は考えながら言葉にした。 「……ポスター」 「ポスター? あ、文化祭の?」 「そう。俺、郷原さんのやつ結構好きだった」 「選ばれなかったけどね」 「うん。でも青いやつ格好よかった」 「そう……私もそう思って描いた」 郷原は急にまた走り高跳びのときに見かけたような無表情に戻って、居心地悪そうにそう答えた。もしかしたら、どういう反応をしたらいいのか困っているのかもしれない。 「来年も描きなよ」 「そうする」 郷原は、今度は笑った。ぎこちない笑顔は愛想笑いかもしれない。 そのとき、僕と郷原の間を白衣の影が通った。 「郷原さん、待たせてごめんなさいね! テーピング自分でできそう?」 「あ、もうできました。黙って帰ったらまずいかなと思って」 「見せて」 養護教諭は郷原の左手に巻かれたテーピングをチェックする。 「うん、大丈夫そうね。この後の競技は?」 「私はリレーだけです」 「大丈夫だと思うけど、無理なことしちゃ駄目よ」 「はい。ありがとうございました」 郷原が立ち上がった。 「秋吉さんはどうしたの?」 「えっ? ああ、クラスメートが倒れたから運んで……」 そういえば、もう用は済んだのだった。 郷原と僕は、そろって救護室を後にした。 あまり日が当たらない、ひんやりとした廊下を進みながら訊いてみる。 「捻挫?」 「うん」 「どこで」 「追いかけ玉入れ。私、かご背負ってたんだけど転びそうになっちゃって」 それは一年生の学年競技のことだ。 通常、玉入れはグラウンドにかごを設置して、そこにどれだけ球を入れられたかを競うことが多い。しかし、僕たちの学年競技では、そのかごをクラスで一人が背負って逃げるという変則ルールになっていた。かごを背負わない残りの生徒は他クラスのかごに向かって玉を入れる。だから『追いかけ玉入れ』。一番球が入らなかったクラスから順位がつく。 そのルール上、かごを担当する生徒が絶対にやってはいけないことが、転んでかごの中の玉をぶちまけてしまう、という行為だった。故意か不意かは別にしたって後々まで禍根を残すこと違いないからだ。 かごを担当していた郷原は転びそうになり、咄嗟に手をついた結果、捻挫したということだ。 「五組って玉入れの結果どうだったっけ」 「一位」 「すごいなあ」 僕は笑ってしまった。 「選抜リレーも出るんでしょ? 本当に運動得意なんだね」 「秋吉さんは出ないの?」 「俺は走るのは苦手だから」 正確にはスターターピストルが鳴った瞬間に地面を蹴って飛び出すとか、力の限り速く走るとか、そういう行動が苦手である。 「じゃあ今日は何に出てるの?」 「午前中にやった綱引き」 それは選抜リレーと障害物走に出ない生徒がほぼ強制参加になる種目だった。 それと、もう一つ。 「あと、長距離走」 長距離走が好きな人間はそういないので、僕はエントリーするだけでクラスメートに感謝された。 並んで歩いていた郷原が僕のほうへ振り返って、不思議そうな顔をしながら言った。 「走るのが苦手なんじゃないの?」 そうか。さっきの説明じゃそうなるな。 「正確には、短距離走が苦手でね」 郷原は、ふうん、と曖昧に頷いた。どうでもいい情報を与えてしまった。 またなんとなく会話が途切れて、僕らは校舎を出て坂を上っていった。 やがてグラウンドに着いて、それぞれのクラスの応援席に戻る直前に郷原が言った。 「頑張れ」 「うん。そっちも」 「うん」 六組の応援席に戻ると、川口が心配そうにこちらへ寄ってきた。 「堂島大丈夫だった?」 「うん。今は長椅子で横になってるよ」 「救急騒ぎにならなくてよかった。遅いから何かあったのかと」 「それはごめん。郷原さんに会ったからちょっと話してて」 「郷原さん? 秋吉、仲いいんだっけ?」 「別に仲がいいわけではないけど」 お互いになんとなく顔は知ってるし、走り高跳びの学年最高記録保持者だし。 そんなことを考えていたら、川口が思い出したように、あ、と言った。 「っていうか秋吉、長距離走だよね? さっきアナウンスかかって入場ゲートに集まってるよ!」 「マジか。意外と時間ギリだったんだな」 「間に合ってよかったよ。じゃあ行ってらっしゃい」 川口の声で振り返ったクラスメートたちに、次々見送られる。 グラウンドでは三年生の学年競技である騎馬戦が派手に行われていた。僕はウォーミングアップを兼ねて小走りで応援席の後ろを通り抜けて、入場ゲートへ向かった。 長距離走は他の競技と違って全学年一斉スタートとなり、三学年六クラスの十八人が同時に走る。必然的に一位から順に、通常種目よりも大きな得点となる。 この学校の運動会は縦割りの六クラス対抗となるので、三学年同クラスの選手がトップ集団になってしまった場合、一気に大量得点されてしまう。出るだけで感謝されるような敬遠される種目とはいえ、できるだけ他のクラスを抜いて上位に入るに越したことはない。 アナウンスがかかり、前の選手に続いて入場ゲートをくぐった。 十分後、僕は歓声の中にいた。 「アキヒト! ありがとう、すごいよ!」 「正直全然期待してなかったんだけど!」 歓声の主な発生源は応援席に戻ってきていたニッシーだった。 僕は長距離走を十八人中四位という上々の成績で終えた。そして、同じ六組の二年生、三年生の先輩がそれぞれ三位と五位につけたので、結果的に長距離走では六組が大きな得点を得たのだ。 「役に立ててよかったよ。じゃないと今日の俺の仕事は堂島を救護室に送っただけになるからね」 「それも有難いけどさ」 「やったな、アキヒト!」 マルが仰々しく両手を広げながら言った。 僕とマルは入学早々、学級委員決めで派手に言い争った。その後、マルと僕は何事もなかったように学級委員を務めているけれど、あまり会話をするほうではない。 なので、マルのほうから僕に話しかけてきたことに、僕は少し驚いた。 「ありがとう」 「さてはお前、腕に覚えがあったな?」 マルがにやりと笑う。僕もつられて笑い返す。 「道場通ってるからね。まあ、覚えがあるのは腕じゃなくて脚だけど」 そういうことだ。 いくら短距離走が苦手だからと言ったって、それなりの自信がなきゃ長距離走なんて自分からエントリーしない。 トラックでは男子の長距離走が始まったところだった。男子はたっちゃんがエントリーしていた。たっちゃんの所属する柔道部は学校の外周を毎朝走っている。こちらも期待してよさそうだった。 たっちゃんとは、走り高跳びの日に話しかけられて以降、話すことが多くなった。話しているうちに、たっちゃんも僕も柔道をやっていることが分かって、その話で意気投合した。たっちゃんが応援席の前を通るたびに、クラスみんなで声援を送った。 その約十分後。戻ってくるなり、たっちゃんは顔の前で両手を合わせて、ごめん、と大きな声を出した。 「いやあ、思ったほど調子でなかったな」 たっちゃんはそう言うと苦笑いをした。 序盤、たっちゃんはいいペースで上位につけていたが、後半で勢いが落ちてしまった。結果は九位に踏みとどまった。九位なら、上位か下位かで言えば上位半分に入るし、ちょうど真ん中だし、悪くはない成績だ。そうフォローしようかと思ったものの、四位だった僕が迂闊に声をかけるのは嫌味のような気もして、僕は逡巡した。 他のクラスメートたちが、僕が思ったのと同じことをたっちゃんに言って、励ましていた。しかし、たっちゃんは「まあ、そうだな、ありがとう」とは言いつつも何かに苛立ったような顔のままだ。多分、調子が出なかったという言葉通り、自分が納得がいかないのだろう。 「そういうこともあるよ、調子が出ない日もある」 僕はようやくたっちゃんに声をかけた。 「なんだよ、四位のくせに」 「だから俺は今日たまたま調子が良かっただけって話」 「俺は調子がよければぶっちぎりの一位だったね」 「見てみたいな、それ」 そう言いながらたっちゃんの顔を見やると、苛立った表情は少し解けていた。 運動会のプログラムも順当に次々と終わり、残すは選抜リレーだけになった。 選抜リレーは男女別で各学年二名ずつ選出され、三学年で構成した計六名が一チームとなって走る。一番の花形種目だ。 「クラス旗はずせ!」 マルが叫ぶと、野球部の男子たちが椅子の上に立ち上がって、防球ネットに結んであったクラス旗をはずした。 彼らはいつのまにかアルミ製の物干し竿を持ってきていた。どっから持ってきたんだよ、という声に、野球部から借りた、という返答が聞こえた。 物干し竿に旗を結び付ける。できあがった竿付きのクラス旗をマルが肩に背負った。応援席の後ろでこれを振るつもりなのだろう。 うっかり後ろからスイカのように頭を割られたらかなわない。僕は近くにいたクラスメートたちと、前方の空席に移動した。 グラウンドの向こうでは選手たちが入場していた。 まずは女子生徒が一斉に配置に着く。走順は各クラスに一任されているので、第一走者が三年生のクラスもあれば、一年生のクラスもあった。その第一走者の中に、選抜リレーに出ると言っていた郷原の姿はなかった。彼女は何番目なのだろう。 スターターピストルが鳴ると同時に六人が一斉に飛び出した。スピーカーからはクシコスポストが流れ出して、いよいよどのクラスの応援席も一気に熱狂し始めた。 選抜されただだけあって、走者はあっという間にグラウンドを半周して次の走者にバトンを渡していく。我らが六組は四位で、三位の一組と競っている。二位が五組だ。 バトンは第五走者にわたり、ついに最終周に突入した。 そのとき、僕は五組の第五走者としてスタートした郷原の姿を見つけた。地面に倒れ込みそうなほど前傾して前の走者を追うその顔は、走り高跳びのときに見せたあの整った無表情だった。ハーフパンツから伸びる白い脚が地面を刺すように蹴り、光る風のように僕の目の前を走り去った。 一瞬、土っぽい匂いの中に違う香りが混ざっていたような気がした。気がしただけで、多分気のせいだ。 「あっ!」 隣のニッシーの声で我に返る。 五組がバトンを落とした。 郷原が渡したバトンをアンカーが受け取り損なったのだ。 アンカーはすぐに拾って走り出したが、後ろから来た一組、そして六組に抜かされて四位に後退してしまった。 六組の走者が追い抜いた瞬間、感極まったニッシーが叫びながら僕に抱き着いた。思わず肘を入れて振り払いそうになったが、直前で肘を止めて僕は硬直した。そのうちニッシーは僕を抱きしめた腕を解いて、ねえ見て三位だよ、と叫びながら僕の肩を力いっぱい叩いた。 トップの四組がゴールテープを切った。続いて、一組、六組、五組、三組、そして二組が到着するとピストルが二発鳴って女子選抜リレーの終了を告げた。 男子選抜リレーは女子以上の迫力で、どのクラスも最高潮に応援が盛り上がっていた。六組の物干し竿に括り付けた旗も力の限り振り回されていた。六組の選手は三学年とも大半が野球部から選出されていて、僕のクラスの野球部員たちが張り切って旗を振り回した理由がよく分かった。 高校最初の運動会はこのようにして無事に終わった。六組は総合優勝できなかったけれど、種目によっては見せ場があったし、何より僕は長距離走で貢献できたので、まあまあ充実していた。
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