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第二章 十五歳 初夏
運動会の余韻もすっかりなくなって、日常が戻ってきた。
六月。山の中に位置するこの学校は、梅雨になるとどこもかしこもどうにも湿っぽい。運動場や外周も雨で使えないので、部活動は軒並み体育館を譲り合うか、そうでなければ校舎内で所狭しとトレーニングに勤しむことになり、少し気の毒だった。
僕は見たことがないけれど、朝早く登校するとバスケ部が朝練で校舎内をランニングしており、廊下を恐ろしいスピードで飛び出してくるという。うっかりすると衝突事故が起きてしまう。一応この学校では朝八時までは朝練が優先されるというルールらしい。八時を過ぎて廊下を走ると怒られる。
だから、放課後にニッシーからあるお誘いを受けたときは、思わず訊き返してしまった。
「逃走中?」
「そう」
「つまり学校の中で鬼ごっこしようって言ってる?」
「今からやるんだけど、どう? 人数多い方が面白いから」
こういうことを思いついたり、僕を誘ったりしてくれるのはだいたいニッシーだ。
春頃まで、僕は誰とでも仲良くなれるニッシーのたくさんいる顔見知りの一人のつもりでいた。それから三か月ほど経って、僕とニッシーは思ったよりも気の合う友人同士になっていた。帰り道が途中まで一緒なのも影響したかもしれない。
この学校は前述の通り、山の中にある。生徒は都心方面へ帰る人が多く、僕のようにさらに田舎へ帰る人は少ないのだ。ニッシーはその数少ない田舎方面へ帰る生徒の一人で、吹奏楽部が休みの日は僕と一緒に田舎行きの電車に乗っていた。僕は途中でバスに乗り換えるので、いつもニッシーより先に電車を降りて別れていた。
今日も吹奏楽部が休みの日だ。いつもならなんとなく少し喋った後、学校を出て山を下り、駅へ向かうはずだった。
「吹部で流行ってんの?」
「別に流行ってるわけでもないけど、吹部メンでやろうって話になったね」
ねえ、やろうよ、とニッシーが続ける。
「高校生にもなって鬼ごっこかあ……嘘だよ、やるやる。絶対面白いじゃん。行こう」
僕は言いながら立ち上がってニッシーとともに教室を出た。
ニッシーに連れられてバルコニーに向かった。
この学校は屋上に出られない代わりに、ベランダと呼ぶには大きな屋外スペースがある。全面に人工芝が敷かれており、あとはベンチがあるだけだ。たまに運動系の部活がトレーニングに使ったり、物干しを持ち込んで洗濯物を乾かしたりしていた。正式名称は知らないが、僕らはそれをバルコニーと呼んでいる。
バルコニーに到着すると、既にベンチに二人座っていた。二人とも女子だった。
ベンチの真ん中に座っていた、その中の一人が僕を指差して言った。
「えー、ニッシー本当に連れてきてくれたじゃん! ありがと!」
僕は指差してきた女子ではなくニッシーのほうを見やった。
「俺を連れてくる約束でもしてたの?」
「約束ではないけど、アキヒトを呼んでほしいとは言われた」
ニッシーはそういえばそうだった、とでも言いたげに答えた。
「怒った? 普通にどんな人なのかなって気になっただけだよ!」
僕を指差した女子はケロッと明るい調子で言う。
「別に怒らないよ。指は差さないほうがいいと思うけどね」
たしかに、という声とともに、すぐに指がひっこんだ。
「アキヒトって呼んでいい?」
「いいよ。あなたは?」
「松川! あだ名とかないから松川でいいよ!」
「わかった」
「よろしく! あのさ、気になってたんだけど、アキヒトって本名じゃないでしょ? なんでアキヒトなの?」
開口一番からずっと、この松川という女子は圧しが強い。
「本名が秋吉瞳だから、略してアキヒト」
「へえ、じゃあサトミと一緒だね! ねえ、サトミ! あれ? サトミは?」
僕はここでもまた急にサトミという名前を聞くことになった。松川はきょろきょろと辺りを見回している。
「ここ」
ベンチの裏から小さな声がした。
松川がのけぞってベンチの背の向こうを覗き込む。
「出てきなよ」
立ち上がってベンチの前に回り込んだのは、やはり郷原だった。
手には携帯ゲーム機を持っていた。ベンチの裏側でずっとそれで遊んでいたようだ。
「サトミも郷原美沙を略してサトミなんだよね」
ほとんど郷原と接点のないはずの僕が、存じております、と返すのもなんだか躊躇われた。かといって、へえそうなんだ、と知らないふりをするのも変だし、僕は曖昧に頷いた。
そんな僕を横目で眺めていた郷原が口を開いた。
「多分知ってると思うよ」
松川が少し驚いた顔をした。
「二人、知り合い?」
「お互いに名前は知ってる程度だけど」
僕が答えた。
松川は僕と郷原を交互に見やりながら、えっ、どこで、などと小声でつぶやいていたが、やがて納得したように言った。
「ああ、走り高跳び決勝戦やってたもんね!」
それを知っているということは松川も郷原と同じ五組ということだ。あんまり人の顔を覚えるのが得意でない僕は、松川の顔を全然覚えていなかった。少し申し訳なく思った。
松川が納得したのならそれで構わないと思った僕は、郷原と運動会の日に救護室で会った話はしなかった。
「これどういう集まりなの?」
僕は話題を変えるためにそう訊いてみた。
「逃走中ごっこしようって集まり」
松川が即答した。そういうことじゃない。
「じゃなくて、どういう経緯でこのメンバーで鬼ごっこしようってなったの?」
「えっとね、まず私と三橋が逃走中やりたいねって話して、私がサトミに声かけて、三橋がニッシーに声かけて、で」
「ニッシーが俺に声をかけた、のか」
松川の隣に座ってずっと携帯電話をいじっていた女子が顔を上げた。彼女が三橋だ。よくよく聞くと、吹奏楽部なのは松川と三橋とニッシーで、僕と郷原は参加者を増やすためにそれぞれ誘われたようだった。
これで全員らしい。早速ルール説明が始まった。
使うのは校舎内のみ。外には出ない。非常階段と渡り廊下、バルコニーはセーフ。上履きで行けるところだけ、というニッシーの簡潔な表現が分かりやすかった。
ハンターが交代した場合は全員に携帯メールで通知する、と松川が続けた。本家ルールではハンターの交代なんてないはずだ。ハンターに捕まった人が次のハンターね、などと説明された。実質鬼ごっこである。
僕たちはお互いの携帯電話のメールアドレスを交換し、松川が代表して全員のメールアドレスに一斉送信のメールを送った。このメールに返信すれば、それだけで全員に通知できる仕組みだ。
最初の鬼――あくまで松川はハンターと言った――を決めるじゃんけんをする。松川が負けた。ええ! と大きな声で松川は嘆いた。
松川が後ろを向いて数えだした途端に僕たちは散り散りになった。
最初の数分は緊張しながら校内をうろうろした。そして家庭科室の調理台の裏に隠れて、さらに数分が経った。
そのうち、これは本当に面白いのだろうか、と思い始めた。
広い校舎内に五人である。
これはもしかして一度も鬼と遭遇せずにゲームが終わってしまう可能性の方が高いのではないか。誰か、既に鬼と遭遇した人はいるのだろうか。そう思って確認のために携帯電話を開いたところで僕は大変なことに気付いてしまった。
僕の携帯電話の電波受信度を伝えるアイコンはぎっちり狭そうに圏外と表示されていた。
――さっきみんなでメアド交換したときは電波入ってたのに!
僕はひっそりと舌打ちをした。
この学校は山の中にある。つまり携帯電話の契約会社によって、そして位置状況によっては電波が受信できないのだ。
バルコニーは曲がりなりにも外であるし、位置的にも家庭科室より上階だ。だから偶然電波が入ったのだろう。
――これはまずいぞ。
僕は一旦電波を受信するために家庭科室を出ることにした。
どこへ行こうか。もう一度バルコニーへ戻るか。しかしここからバルコニーまでは結構距離がある……そう考えながら家庭科室の扉を迂闊に開けた。
家庭科室からまっすぐに伸びる廊下の、一番奥に三橋がいた。
「アキヒト?」
「うん。ねえ、三橋さん、鬼って交代したのかな?」
三橋は答えずに、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「ねえ、三橋さん。俺、携帯圏外なんだよ」
「そう」
三橋は短く答えた。
不気味だ。疑念を抱く。
「……ぶっちゃけ訊くんだけど、三橋さんもしかして鬼?」
三橋は答えずにずんずん廊下を歩いてくる。
これは多分、つまり、そういうことだ。
僕は三橋の答えを待たずに家庭科室を飛び出した。すぐ後ろから三橋が追いかけてきた。やっぱりそうだったか。
一度鬼に見つかると、校舎内というのは随分と逃げるのが不利だった。直線で構成されていて逃げ場がない。それに、校内は広く他のメンバーと途中ですれ違うこともほぼないので、鬼が途中で他のメンバーを追うことを選んでくれる確率も限りなく低い。逃げ延びる方法は鬼が見失うくらい距離を空けること。距離を空けるためには、単純に考えれば鬼より速く走る必要がある。だけど僕は速く走るのが得意ではない。さて、その状況で鬼に見失ってもらうには?
僕はなんとか廊下の端の非常階段までたどり着いて、数段飛ばしで一気に降り始めた。三橋がどれくらい足が速いのかは知らないけれど、階段は足が速い人間にも平等に危険でブレーキがかかる場所だ。そして一階分の高低差さえあれば、下りながら踊り場で折り返すうちに、一瞬でも鬼の視界から消えることができる。
僕は飛び石を渡るようにして階段を降りると、一階の非常口の引き戸を開けた。
その途端に腕を掴んで引き寄せられ、そのまま暗がりに引きずり込まれた。
僕がびっくりして声を出そうとすると、僕を掴んだ手の持ち主がそれを察した。
「静かに」
郷原の声だった。
一階の非常階段側の廊下は広く作られており、ワークスペースと呼ばれている。文化祭のときには、ここにステージを作るらしい。六月現在、その場所は使われていない体操器具の一時保管場所となっている。積み上げられたマットレスの山は僕の目線に届こうとしていた。
郷原はそのマットレスの山と壁際の隙間に僕を引きずり込んだのだ。足元には平均台が二本ほど並んでおり、積み上げられたマットレスと壁際の間にわずかな空間を作っていた。僕と郷原はその空間で、平均台の上に身体を折って座っていた。
「それ」
郷原はまた予備動作なしで口を開いた。
「それ? 何、どれ?」
僕はまだ息が切れたまま訊いた。
「それ。その丸まってるマット」
言いながら郷原が指さした。その指先に目線を動かす。壁際に丸めて平べったいベルトで縛ってあるマットがあった。
「それで入り口塞いで」
郷原がそう言ってる間にも、非常階段を勢いよく降りる足音が近づいてくる。考えるより早く身体が動いた。僕はマットを縛っているベルトに手をかけて、力一杯引き寄せた。
非常口の引き戸が開く音がした。
僕はマットを丸めて縛っているベルトを掴んだまま、息を止めていた。
それは実際には数秒のことだったのかもしれないが、僕にはとてつもなく長い時間のことのように思えた。最初はマットの山の外の気配を感じ取ることに集中していたが、そのうち背中の向こうの郷原の体温が伝わってきたような気がした。僕の背中のすぐ後ろで、郷原が息をひそめている。
やがて廊下の足音が小さくなって遠のき、三橋がいなくなった気がした。
「行ったみたい」
僕は振り向かずに言った。
丸めたマットをずらして外の様子を伺った。言った通り、三橋はもういなかった。
僕が振り向くと、郷原は携帯ゲーム機を出して遊んでいた。
郷原と携帯ゲーム機という組み合わせはなんだか意外な気がして、僕はしばらく声もかけずに郷原がゲームに興じる様子を眺めていた。
「チクる?」
その郷原の問いかけで、僕は随分長いこと黙って郷原を見つめていたことに気付いた。
「何が?」
「ゲーム機持ち込んでるって先生に言うの?」
言葉としては僕に問いかける形をとっているけれど、それが本当に純粋な問いかけなのかは分からなかった。先生に言わないでほしい、という言外の依頼なのかもしれない。あるいは僕がどう答えるのか品定めしているようにも見えた。郷原の視線はゲーム機の画面に釘付けだし、指は忙しなくボタンを押して回っていた。僕はゲームをまったくやらないので彼女が何をしているのかさっぱり分からなかった。
「しないよ」
僕は答えた。
「そんなつまらないことしない」
「つまらない?」
「うん」
「じゃあ何だったらするの?」
「えっ」
相変わらずゲームに忙しい郷原からの思わぬ質問に虚を突かれた。
「君は何だったら面白いの?」
このまま僕と会話を続ける気らしい。器用な奴だ。
「放課後に学校の中を使って鬼ごっこ、とか」
「他は?」
「他? 急に言われても思いつかないよ。たまにゲーセンには行く」
「ゲーセンは私も行く」
「そうなんだ」
ちょうどゲームが終わったらしい。郷原は携帯ゲーム機の電源を切ると、こちらを見上げた。
「意外だった?」
郷原が言った。
「なんで」
「そう思ってる気がした」
「まあ、そうだね。学校にゲーム持ち込むタイプには見えなかった」
「君、結構私のこと想像するよね」
そう言って郷原は少し口角を上げた。クールに微笑んだとも、したり顔ともとれる表情だった。
「なんだよそれ」
それではまるで、僕が郷原に興味があって妄想しているみたいだ。そんなことは断じてまったくない。
「そんなことないよ」
「ふうん。ねえ、君の想像する私はどういうタイプなの?」
「……放課後こんな馬鹿なことしてないでまっすぐ帰るタイプ」
僕の返答に、郷原が息を吐くついでのように、ふふ、と笑った。
「それから、趣味で哲学書読んでそう」
「どういうこと?」
郷原が訝しんだ。
「頭がいいから。新入生代表スピーチって首席合格者がやるんだろ?」
「そうなの? 知らなかった」
「マジかよ」
そんなことあるのか。たしかに、入学試験の答案は受験生に返却されることはないので「あなたが首席でした」と言われなければ分からないけれど。
「まあ哲学書も読むけど」
当ててしまった。
「ニーチェとか?」
訊いてから自分の哲学知識の浅さに恥ずかしくなった。哲学者なんてニーチェかソクラテスしか出てこない。
「今はディルタイだね」
「全然わかんねえ」
「私も分からない」
「分からないのに読むんだ」
「興味があるから」
僕は哲学の話ですっかり興味がなくなってしまった。なんとなくそれが伝わったようで、郷原もふいと僕から視線をそらした。そのまま話は途切れてしまった。
鬼ごっこはどうなったのだろう。僕の携帯電話には着信が入っていない。そもそも電波状況が怪しい。郷原の携帯電話はどうだろうか、と僕が郷原に訊こうとしたとき、郷原が急に再び僕のほうへ向き直った。郷原の綺麗な形をした瞳が僕を見つめる。
「君にも興味がある」
「えっ、な、何?」
どもり気味の大きな声が出てしまった。
「君がどんな人なのか、興味がある」
「……そう」
「……うん」
そうか。と、僕は頷く以外にできなかった。
「アキヒトって呼んでいい?」
ややあってから、郷原がぼそぼそと言った。
「いいよ」
松川もだったけれど、そんなことお伺い立ててくれなくていいのに。
「俺もサトミって呼んでいい?」
「うん、いいよ」
サトミ。やっぱり名前みたいだ。僕のアキヒトだってそうなんだけれど。
そのサトミは他に言わんとしていることがあるらしく、口を開きかけては閉じる、というのを数度繰り返した。
「それでね、」
サトミが口を開いた。
「帰り道が一緒でもいい?」
奇妙な質問に僕はいいよとも駄目とも言えず、質問を返してしまった。
「それは駅までってこと? それとも帰りの電車が同じってこと?」
「……電車どっち方面?」
僕は田舎方面行きと答え、さらに途中のターミナル駅で降りることも伝えた。
「じゃあ降りる駅まで同じだ」
「もしかして、一緒に帰ろうって言いたかったの?」
サトミは一瞬驚いたような顔をした。それから少し照れたように笑った。
「そうかもしれない」
郷原美沙。サトミ。
入学試験の首席合格者で、走り高跳び校内女子学年記録保持者。運動会のリレーでは選抜メンバー。芸術の才覚もある。そしてやや冷たい印象は与えるものの、整ったパーツが整った位置についた人形のような白い顔。
一見して才色兼備と思われる彼女は、どうやら思ったよりも意外と完璧人間ではなさそうだ。
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