遺体写真にびっくりした話。

1/1

3人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

遺体写真にびっくりした話。

 昨日「あの日、欠けた言葉」を書くきっかけとなった先生の提示した資料を見たんです。テストの資料なんですが、読まないとさすがにやばぁい状況だったので、資料をひらいたわけです。  じっくり読み進めていく中である資料に行き当たりました。  私はそれを見てひどく傷つきました。外国では別になんとも思わないものなのですが、さすがにきついものがあったわけです。その資料を警告なしに提示されていて、驚いたのもあります。  驚き、傷つき、先に進めず、読めなかった。  うーん、でもこれは私のせいなので、客観的に見れてなかっただけなのですが、やっぱり厳しいなぁとも思うわけで。  その資料が何だったのかと言うと、「遺体」の写真だったのですが。  日本では遺体の写真はメディアに露出する際、モザイクがかかります。報道記者も遺体の写真は貴重な資料として撮るものの、メディアでの露出は避けると考えている人が大半です。  一方で遺体を見せないということは現実を見せないということになる、ということでメディアに積極的に載せる記者ももちろんいたりします。  日本はそれでも傷つく人を危惧し、控えているわけです。  私もどちらかと言えば控えてほしいと思っているのですが、もし、もしですよ、資料として提示されるのなら警告がほしかった。そしたら脳裏に焼き付く遺体の写真も少しは覚悟を持ち見れたのに。  ……なんて、わがままかもしれません。  小説の中でどれほど残酷な描写をしようと、現実の遺体については思うことがあります。見るのがつらかったり、目を逸らしたりしてしまいます。  爪が割れて、血がにじむ自身の指先は平気で見れるのに、つまようじが突き刺さり手に傷を負って鮮血を流す祖母の手を見た途端胸のあたりが痛くなったりすることもあります。  そういう自身の限度を探る毎日だったりします。  私は普通とか分からないので、とにかく感性にしたがっています。胸のあたりが痛かったらきっと痛いのでしょう。多分。  それはともかく、私は遺体の写真、資料、メディアについての是非は言いません。私の意見だけ置いておくだけです。  ただ見せる見せないの意見はどちらの意見も正しく、どちらも苦しいものに間違いないのです。  もしかしたら遺体に部位欠損がある状態だったら見せるな、とかあるかもしれません。そういう価値観は人それぞれです。ここで線をつけるべき! と強気なことも言いません。人は人それぞれ違うものですし、私が今回胸を痛めた事柄も、もしかしたら他の誰かは別になんとも思ってないなんてこともありえるわけです。  ですが、やっぱり警告されずに見たのはもやもやしてしまうのです。  仕方ない、と胸をさすり続けて無理をするのもしゃくで、とりあえずもやもやを落とそうとこうしてエッセイにしてみました。  遺体を前にし泣き叫ぶ家族や、安置所に並べられた遺体を直視するなんて、そこまで私は強くないのです。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加