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「という訳で、事なきを得たんだ」
全てを聞き終えた私は、震える手で、瑠香さまの手を取った。
バイタルのログを確認する。
今から数時間前に大きく乱れがあった。話は本当である可能性が高い。
けろっとしている瑠香さまに向かって、いつもの言葉を告げる。
「脈拍、血圧、呼吸、体温、どれも正常です。が、お話をお伺いする限り、瑠香さまたちの取った行動は常軌を逸しています」
「わかってくれたか、エレナ。リツは本当に酷いやつだ」
そのリツさんに付き合うあなたもあなたです、と言ってやりたかった。
でも言えなかった。
この話を続ければ、リツさんについて聞けば、瑠香さまは教えてくれるだろう。だからこそ聞きたくなかった。リツさんは瑠香さまの家族かもしれない、同僚かもしれない。
でも、恋人だったら。
AI失格、と言われようと構わない。私は、瑠香さまに恋人がいるなんて知りたくもなかった。
「そのあとさ、リツとアキとあたしの三人で素麺を食べたんだ!」
胸の奥で何かが空回りする。
努めて冷静を装う。
「何故です?」
「だってさ、雨が降って雷が鳴ったらさ、そうめんが食べたくなるだろ!?」
「……人間の嗜好は十人十色ですね」
アキさんのソリに助けられたお二人は、ほうほうの体で、プラントと呼ばれる居住区域へと無事帰還した。
防風壁と同じシステムで防護された生活区域は、あらゆるデジタル技術が駆使され、昔懐かしの日本が再現されている。
瑠香さまの自宅は、平屋の大きな日本家屋だ。三人で晩御飯の用意をする。
ネギ、カツオ節、ミョウガ、ゴマ、茹でた豚肉、大根おろし、錦糸卵、茄子の揚げびたし。
様々な薬味を取り合わせた、お素麺。
魯山人も愛したと言われる赤い江戸切子の器の、清らかな迫力。薬味を入れためんみに素麺をちゃぽり沈めると、氷が器に当たる。えも言われぬ夏の涼が立ち上る。
「美味かったなぁ。ヴィレッジでも、素麺キット作って販売しようかな」
「その場合、背景や家具も追加したほうがよろしいですね」
「やっぱりー? とはいっても映像の使用権で金かかんだよなー、だとすると」
私たちは仕事の話をした。いつもプライベートと仕事をきっちり分ける瑠香さまなのに、珍しい。
そう。いつもと、違う。
何とはなしに、嫌な予感がした。
草案がまとまったところで、瑠香さまが切り出した。
「今日は仕事の話に付き合ってくれてありがとう。実はね、会社、辞めようと思うんだ。だから、やれることはやっとかないと」
「──ほんとう、ですか?」
「うん。ここのアカウントもどうするか考えないとねー」
私には顔認証システムが搭載されている。瑠香さまの笑顔のストックは沢山ある。そこに紐づけられた意味も知っている。
瑠香さまの、こんなにもさっぱりした笑顔を、はじめて見た。
力強い両目は、未来をひたと見据えていた。
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