3 雨のはじまりを見たことがある?

3/3
前へ
/7ページ
次へ
「という訳で、事なきを得たんだ」 全てを聞き終えた私は、震える手で、瑠香さまの手を取った。 バイタルのログを確認する。 今から数時間前に大きく乱れがあった。話は本当である可能性が高い。 けろっとしている瑠香さまに向かって、いつもの言葉を告げる。 「脈拍、血圧、呼吸、体温、どれも正常です。が、お話をお伺いする限り、瑠香さまたちの取った行動は常軌を逸しています」 「わかってくれたか、エレナ。リツは本当に酷いやつだ」 そのリツさんに付き合うあなたもあなたです、と言ってやりたかった。 でも言えなかった。 この話を続ければ、リツさんについて聞けば、瑠香さまは教えてくれるだろう。だからこそ聞きたくなかった。リツさんは瑠香さまの家族かもしれない、同僚かもしれない。 でも、恋人だったら。 AI失格、と言われようと構わない。私は、瑠香さまに恋人がいるなんて知りたくもなかった。 「そのあとさ、リツとアキとあたしの三人で素麺を食べたんだ!」 胸の奥で何かが空回りする。 努めて冷静を装う。 「何故です?」 「だってさ、雨が降って雷が鳴ったらさ、そうめんが食べたくなるだろ!?」 「……人間の嗜好は十人十色ですね」 アキさんのソリに助けられたお二人は、ほうほうの体で、プラントと呼ばれる居住区域へと無事帰還した。 防風壁と同じシステムで防護された生活区域は、あらゆるデジタル技術が駆使され、昔懐かしの日本が再現されている。 瑠香さまの自宅は、平屋の大きな日本家屋だ。三人で晩御飯の用意をする。 ネギ、カツオ節、ミョウガ、ゴマ、茹でた豚肉、大根おろし、錦糸卵、茄子の揚げびたし。 様々な薬味を取り合わせた、お素麺。 魯山人も愛したと言われる赤い江戸切子の器の、清らかな迫力。薬味を入れためんみに素麺をちゃぽり沈めると、氷が器に当たる。えも言われぬ夏の涼が立ち上る。 「美味かったなぁ。ヴィレッジでも、素麺キット作って販売しようかな」 「その場合、背景や家具も追加したほうがよろしいですね」 「やっぱりー? とはいっても映像の使用権で金かかんだよなー、だとすると」 私たちは仕事の話をした。いつもプライベートと仕事をきっちり分ける瑠香さまなのに、珍しい。 そう。いつもと、違う。 何とはなしに、嫌な予感がした。 草案がまとまったところで、瑠香さまが切り出した。 「今日は仕事の話に付き合ってくれてありがとう。実はね、会社、辞めようと思うんだ。だから、やれることはやっとかないと」 「──ほんとう、ですか?」 「うん。ここのアカウントもどうするか考えないとねー」 私には顔認証システムが搭載されている。瑠香さまの笑顔のストックは沢山ある。そこに紐づけられた意味も知っている。 瑠香さまの、こんなにもさっぱりした笑顔を、はじめて見た。 力強い両目は、未来をひたと見据えていた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

31人が本棚に入れています
本棚に追加