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狂ったような蝉時雨が熱波を震わせたこの日、北関東は朝から三十度を超えていた。
国道沿いに延々と畑が続く田舎町に、要塞のような建物が聳え立ち、大きな影を堕としている。
要塞の罅割れから、一匹のヤモリが鼻先を覗かせたとき、正門から一人の男が、塀の外に足を踏み出した。三年ぶりの娑婆だ。
こんなときは裏門を使うもんだと思っていたが、意外と正門から出るんだなと、男は思った。後から聞いた話だと、迎えの車が列をなすヤクザの出所だけは、近隣への配慮で裏門を使うらしい。
男が陽射しに目を細め、日陰に身を隠したとき、塀に張りつくヤモリを見つけ、とっさに右手で掴んだ。ひやりとした感触のヤモリは、軽く握った手の中で、頭と尻尾を左右にくねらせた。
「おまえ、迎えに来てくれたのか?」
男の声にヤモリはぬるりと指をすりぬけて、さっと道路に逃げた。
「あっ……」
次の瞬間、走ってきた軽トラがヤモリを轢き、黄色い体液だけが乾いた地面に残った。
「ごめん……」
男が手を合わせていると、「お兄ちゃん!」と声がした。
妹の香織が駆け寄って来た。
香織は汗を光らせて「おかえりなさい」と、男の両手をぎゅっと握った。
「お兄ちゃんやせた? それか、精悍になったのかな?」
「そうか?」
「うん。お勤めごくろうさまでした」
「バカ、そっちのスジの人間みたいだろ」
「手つなご」
男は照れ臭さを感じながら、三年ぶりの妹の手をとり、栃木駅行きのバス停までを歩いた。
およそ一時間後。
足立区北千住のファミリーレストランで、男はチョコレートパフェに舌鼓を打っていた。
「なかで聞いたけど、甘いもんが無性に食べたくなるって本当なんだな」
柄の長いスプーンを器に突っ込み、かちゃかちゃと底までこそぐ。
「お兄ちゃんがパフェ食べるなんて、なんだか可笑しい」
「お前も好きなもん食べな。奢りだ」
「ダメ! お祝いだから私が払う」
妹がサッと伝票を取る。
「じゃあご馳走さま。でもおまえ、給料前だろ?」
「大丈夫。夏のボーナス少しもらったから」
「そうか、悪いな」
四つ年下の妹の奢りは、照れ臭くも嬉しかった。
「香織、ばあちゃんは元気にしてるか?」
「うん、元気だよ。昨日はあんまり寝てないみたい。お兄ちゃん待ちきれなくて」
「そうか。じゃあ早く帰んないとな」
「うん。腕をふるうってはりきってた」
「ばあちゃんの料理楽しみだな」
この男、伊吹英二は、祖母と妹の香織と三人で暮らしている。
英二が五歳のときに両親が離婚し、その後は祖母が、英二と香織を育て上げた。
「あ、もうこんな時間! 私これから、おばあちゃんと買い物に行くけど、お兄ちゃんは?」
「ああ。俺は寄りたいところがある」
ファミレスを出て、北千住駅の改札の前で香織と別れた英二は、数歩足を進めると徐々にスピードを上げ、躰の前に小さく畳んだ両拳を交互に繰り出しながら、軽やかに走りだした。
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