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 英二はラーメン屋の仕事を再開した。  まだ怪我が癒えていない。  店長の配慮で、今日は夕方までの勤務だ。  午後二時過ぎ。  男性客に水を出した英二は、その顔を見て驚いた。  ジムの板倉会長だった。 「英二……久しぶりだな。何年ぶりだ?」 「板倉会長……」 「手紙読んだぞ。元気そうでなによりだ」  板倉が目を細める。 「すいません……ご無沙汰してまして……」 「ラーメンセットとビール一本頼むよ」 「あ、はい、お待ちください!」 「ところで英二、今日、仕事終わりにどうだ?」  板倉が酒を飲むジェスチャーをする。 「あ、はい! ぜひ!」  北千住駅前の赤提灯で、二人は三年ぶりの再会に乾杯した。  英二が服役中、板倉は一度も面会に行かなかった。  自分の顔を見ると英二が恐縮するだろうと気遣ったのだ。  板倉は英二の漢気(おとこぎ)を責める気はなく、むしろ英二のことを、ずっと気に掛けていた。 「会長、あのときは本当にすみません」  英二は両膝に手を付き、頭を下げた。 「英二、頭上げろ。べつにおまえに詫びてもらいに来たんじゃない」 「はい、すみません……会長、なぜ急に?」  板倉は、英二の顔をじっと見て言った。 「おまえまだ、シャドーしながら走ってるらしいな」  板倉に見られていたのかと英二が驚く。  英二はラーメン屋の行き帰り、いつもシャドーをしながら走っていた。  一日も欠かしたことはなかった。 「おととい、うちの選手の飯伏が、千住大橋をシャドーで走るおまえを見かけてな。飯伏は、お前がパンチングボールの打ち方を教えた子だ」 「あ……はい、覚えてます」 「あの子の目標だったんだよ、英二は。それで、よほど嬉しかったのかジムに貼ってあるお前のポスターの写真を撮って、母親に見せたらしいんだよ……」 「はい……まだポスターが……」 「そしたら、飯伏の母親が驚いて、この人どこにいるのかって、お礼を言いたいって、大騒ぎだったらしい」  板倉が笑う。 「おまえ……本当に変わらねえな」  呆れたように言う。 「会長、俺はお礼言われるような覚えは……」 「英二。オレオレ詐欺を阻止したんだろ? それがたまたま、飯伏の家だったんだよ」 「あ……」  三件目の舎人(とねり)駅で、飯伏という家を訪問したことを思い出した。  マンションに向かう途中に、板倉ジムの古い立て看板があった場所だ。 「英二、人助けもほどほどにしないとな。ただ、飯伏の母ちゃんは本当にお前に感謝してるそうだ。お礼を受けてやらないと、今度は向こうがすっきりしないぞ」 「はい……」 「だったら今度ジムに顔出せ。飯伏の母ちゃんも俺が呼んでおく」 「はい、よろしくお願いします」  二人はもう一杯ビールを注文した。 「それとな英二。またボクシングやる気あるか?」 「え?」 「まあ、聞くまでもないか。シャドーも続けてるし、ムショ暮らしで少し細くはなったが、身体は絞れてる」 「でも会長……俺はもう、プロ免許もないですし……」  板倉が英二の肩を分厚い手でバンと張る。  怪我が癒えていない左手に響き、思わず顔をしかめる。  悪い悪いと板倉が笑い飛ばす。 「今すぐ答えを出せとは言わない。ただ、心に(しこり)が残ったままだったら、ちゃんと考えてみろ」  中途半端にボクシングから遠ざかった英二にとって、ボクシングはまさに心の痼だった。  板倉は英二に、死ぬまでその痼りを抱えて生きて行くのかと突きつけた。  自分の力がどこまで通用するのか、確かめてみたかった。  板倉の言葉が、英二が心の奥にしまっていたボクシングへの思いに、再び光を当てた。 その後も二人は夜遅くまで、旧交を温めた。
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