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一年後の初夏。
猛暑日のマニラは三十六度を超える暑さだった。
日本と似て湿度が高いマニラは、少し歩くだけで汗だくになる。
マニラから車で三十分ほどにある、フィリピン・パサイの大型商業施設、SMモール・オブ・アジア。
スケートリンクやバスケット場も併設する巨大ショッピングモールだ。
そのボクシング会場で、英二は出番を待っていた。
およそ一年前。
板倉会長と再会を果たし、夢を諦めるのかと突きつけられた。
英二は再びリングに立つことを決意した。
ラーメン屋の出勤を半分に減らしてもらい、浮いた時間を板倉ジムのトレーナーとしての仕事に充てた。ジムは給料も払ってくれている。
日本で試合ができない英二のため、板倉がツテを使い、フィリピンでの再デビューにこぎつけた。
フィリピンは、元WBC世界フライ級王者のマニー・パッキャオを生み出したボクシング大国だ。
パッキャオは史上二人目の六階級制覇を成し遂げた国民的英雄であり、フィリピンの上院議員を務めている。
控え室では、セコンドを務める板倉会長、隆、そして車椅子に乗った横尾香織が、英二のシャドーを不安げに見守っていた。
隆と香織は事件のあと入籍していた。
「お兄ちゃん」
英二が手を止め、香織に目を向ける。
「隆ちゃんと先に客席に行ってるから、頑張って!」
「ああ」
一言返すと英二は、再び黙々とシャドーを始めた。
テーピングした拳を突き出すたびに玉のような汗が飛び散り、蛍光灯の光を反射する。
英二の躰の動きに合わせボクシングシューズがキュッキュッと、軽やかな音を放つ。
足下には汗だまりができている。
「英二、飛ばし過ぎるな。もう充分だ」
「はい」
英二は手を休め、ベンチに腰を下ろした。
「英二、入場のとき、これ羽織って行け」
板倉が壁際のカーテンをサーっと開ける。
光沢のある深い碧色のガウンが現れた。
肩の辺りは、EIJI.IBUKIと白く抜かれている。
背中では大きなヤモリのシルエットが、燻し銀の光を放っていた。
「会長、ありがとうございます!」
「気に入ったか? 前座だけどな、お前ならすぐにランクを上げる。先行投資だ」
板倉が英二の背中をばんと叩く。
「でも会長、なぜヤモリが?」
「おお、これか。地元のGECKO産業がスポンサーについてくれてな」
「それはありがたいです」
「GECKOってのはヤモリのことだ。英二、ヤモリは漢字で、守宮って書いてな、害虫を退治して家を守ってくれる有り難い存在として、昔から崇められてるんだぞ。動きも早いし、お前にぴったりじゃねえか!」
板倉はガハハと豪快に笑った。
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