1人が本棚に入れています
本棚に追加
奥村紗彩は、私たちのクラスでクラス委員を務めており、何かと目立つ女子だった。いつも二、三人の友人と共に行動していて、一人になったら死ぬのかというくらい常に誰かと一緒にいる。私はそんな奥村とも、まともに話したことは最近までほぼなかった。
それが、二ヶ月ほど前だろうか。放課後、早めに先生に提出しておきたい課題を教室で進めていた時、奥村が声をかけてきた。
「あっ、ねえ、古瀬さん。ちょっとこれ、先生に届けてきてもらえるかな? クラス委員が届けろって言われてるんだけど、あたし他の作業もあって手が離せないの」
私の机の隣に立った奥村は、本当に焦っているような顔をしていたので、私は快諾した。
「いいですよ、全然。暇なので」
気を遣って加えた一言が、きっとよくなかったのだ。それ以降奥村はやたら私に雑用を押し付けてくるようになった。
「あ、これ三年A組の丸山先輩に渡してきてくれない?」
「この資料、この紙に写しといてもらえるかな? 今度のクラス会で使うから」
「はい、これクラスの意見ボックスに入ってた意見書なんだけど。なんかすごい溜まってるから集計しといて」
私は最初は手を貸してはいたが、私はクラス委員ではないし、人手が足りていないならまず常に一緒にいる奴らに頼めよ、と次第に思うようになった。だからある日奥村に言ったのだ。
「あの、奥村さん。すみません、わたしもちょっとやることあるので、他の人に頼んでもらえませんか?」
すると彼女は言った。
「はあ? あんた暇なんでしょ? 部活入ってなくてさ。しかも大して勉強できるわけでもないのに塾行ってないらしいじゃん。本格的に暇人でしょ? 手伝いくらいしなよ」
私が絶句していると、奥村は続けて言った。
「あ、じゃあこれ、あんたの筆箱? 預かっておくから。先生に出す資料まとめるの終わったら返してあげる」
奥村とその周りの生徒はくすくすと笑って、教室から出て行った。待って、とか返して、とか言えばよかったけど、口から言葉は出なかった。
あの日もそうだった。コンテストへの出展の候補となる、美術の課題の作成締切日。これまでは、締め切り間近になったら放課後は美術室にこもり、作品を少しでもよくできるように作業を進めていた。それなのにあの日も、奥村は雑用を押し付けてきた。ご丁寧に私のかばんを漁って、絵の具を取り上げて。おかげで、締め切り最後の日なのに一つも絵を描けなくて、満足いくものに仕上げられなかった。今回は、私の大好きな白鳥をテーマにして描いたから、もっと、羽や空の色を綺麗に調整して最後の仕上げをしたかったのに。
私にそんなことをしておいて、奥村の絵は今回のコンテストの出展作品に選ばれて、私の絵は選ばれなかった。美術の先生に褒められて浮かれて、もらった美術展のチケットをひけらかして回っている奥村を見ていると、腹が立って仕方なかった。あいつのせいで、私の作品が選ばれなかったんだ。私の方がずっと、絵を描くのが好きなのに。
「あたしあれ、羨ましいんだよね。美術展のチケット」
雨宮は窓の外を眺めながら話していた。
「あたしも結構絵とか好きでさ。一度見に行きたいなぁ。もっとバイトで稼がなきゃだけど。それで? 古瀬はコンテスト、出したことあるの?」
「……はい、まあ。去年の秋と、今年の春のコンテストには選ばれました」
「へえ、マジか、すごいじゃん!」
雨宮はバンと机を叩いて感心した声をあげた。
「いえ、すごくないです。今回のには選ばれませんでしたし。別に、いいですけど」
「今年の春のっていうと、森の中に狼が立ってる絵だろ? あたしあれすごい好きだったよ。狼のまとう空気っての? そういうのがすごくかっこよくて、あんな絵描けるようになりたいなって思った。すごいと思うよ」
「……だから、すごくないです」
思わず小さくなる声で、言い返した。雨宮が褒めれば褒めるほど、私の気分は沈んでいった。だってそれはもう数ヶ月前のことで、今の私は「すごく」ないから。
私はありえないくらい性格の悪いクラスメイトの使いっ走りで、コンテストには選ばれなくて、他にとりえなんてないのに、大好きな絵だって描くのが下手だ。
コンテストへの出展作品が発表された時、私は美術の先生に話をしに行った。自分を差し置いて奥村が選ばれるなんて耐えられなかったから、手直しをするからなんとか自分の作品を改めて評価をしてもらえないか、すがって頼んだ。きっと私の作品が選ばれなかったのは、最後に色をもっと塗り込めなかったからだと思ったからだ。奥村のせいで。
「お願いします。無理を言っていると思うんですけど、一度に二作品選ばれたことは過去にもありましたよね? もう一度見ていただくだけでいいんです。お願いします」
すると先生は困った顔をして言った。
「そうしてあげたいのはやまやまなんだけど、こういうのは生徒間で平等にしないといけないからね」
そして、ちょっと私から目をそらして申し訳なさそうに続ける。
「あと……、古瀬さんの今回の作品は構図とかテーマの方がちょっと、コンテストに出すには、向いていないっていうのかな? だから今から手直ししても厳しいかなと思うよ」
私は自分の目が見開かれていくのを感じた。私の絵が、私の描いた白鳥がコンテストに選ばれなかったのは、奥村のせいではなかった。完全に、私の力不足だった。気まずそうにする先生の顔を見て、乾いた笑いが出た。そりゃあ、それほど上手い絵を描くわけでもない生徒が、コンテストに出してもらいたいとすがりついてきたら困りもするだろう。申し訳ない気持ちと、恥ずかしい気持ち、悔しさや情けなさがごちゃごちゃになって、言葉が出なくなった。先生は、
「でも、また春にもあるし、他のコンテストに出してもいいじゃない? こんなことで、そんなに落ち込むことじゃないわよ」
と言ってくれた。
こんなこと、と言えばそうだ。別に私は美術の道を志しているわけではないし、コンテストで受賞しないと死ぬわけでもない。でも、美術は、絵を描くことは私の数少ない楽しみで、成績が悪くて親に嫌味を言われても、嫌いなクラスメイトにバカにされても、絵と向き合う時間だけは全部忘れて幸せな世界に浸れるのだ。絵だけは、他の人から認めてもらえる私の持つ価値なのだ。だから、私の絵が否定されたら、自分の好きである気持ちも、描いていた時間の楽しさも、私自身も否定されるようで、叫び出したいくらい苦しくなるのだ。
雨宮は言った。
「でもあのチケットはさ、欲しいやつにあげりゃあいいよな。別にコンテストに出せるような絵が描けなくても、本当に絵が好きで、見に行きたいと思ってるやつ。あたしだって、行ってみたいよ」
「雨宮さんも、絵、好きなんですか?」
「うん。好き」
「結構描くんですか?」
少し意外で、わたしは重ねて問いかけた。
「結構、絵上手いんですか?」
聞いてから、失礼な質問をしてしまったかなとなんとなく思った。だが雨宮は気にした様子もなく、さらっと答えた。
「いや、全然」
とても潔く、恥じたり恐れ入ったりしていない口調だった。雨宮は少し笑って続けた。
「いや、今のバイト先ってのがさ、画材屋なんだよ。時給いいから選んだバイト先だったけど、結構絵って面白いんだなって気づいてさ。店長がお客さんと一緒に筆とか絵の具とか選んだり、自分が描いた絵の話をするの聞いてたら、自分もやりたくなっちゃったんだ。だから全然、絵はうまくないし、小学生の絵みたいなのだけど、絵は好きで、楽しく描いてるよ」
「……下手だけど好きって、言えるんですね」
「え? そりゃあ、好きと上手い下手は関係ないじゃん。好きは好きだよ。下手だって人に文句言われる筋合いはないよ」
「そう、ですか」
雨宮は、はっきりものが言えていいな、と私は思った。
そうか、私が作ったものの価値と、私の好きだという気持ちの価値は、別物なのかもしれない。何気無しに生まれた会話だったが、雨宮の堂々として裏表のなさそうな顔を見て、私は少し心が軽くなるのを感じた。
ちらほら教室には部活や委員会終わりのクラスメイトが戻ってきている。これではもう、奥村のかばんからチケットを取り戻すことはできない。そもそも、取り戻すも何も、最初から私のものではなかったのだから、そんな機会は巡ってこなくて当たり前だった。
窓の外では夕立が止みつつあり、オレンジがかった日差しが校庭にさしこんでいる。雨宮は、バイト先へ急ぐべく慌てて身支度をし始めた。私も彼女みたいに、自分が大切なものを好きな気持ちを否定しないでいられれば、もうチケットなんて手元になくても良い気がしてきた。もう帰ろう、と思って、筆箱をかばんにしまう。初めて奥村が私のものを取り上げてきた時のことを思い出して、人のものを盗んだりしなくてよかったと、ほっと息をついた。
雨宮がかばんを手にして、教室を出て行こうとしている。その姿を目で追っていると、ぱたぱたとこちらに走り寄ってきた。
「古瀬さ、今度あたしのバイト先来なよ。隣駅の駅前にあるんだ」
「え」
彼女の真意がわからず、言葉に詰まっていると、雨宮はにかっと笑って言った。
「だって古瀬、絵を描くのが好きなんだろ?」
私は少しためらってから、はっきり答えた。
「はい! 今度、絵の具を買いに行きますね……!」
「おう!」
雨宮は、バンバンと私の肩を叩いて、大急ぎで廊下を駆けて行った。
帰る支度をし、昇降口から外へ出ると、雨の上がった綺麗なオレンジ色の空が広がっている。昼ごろのじめっとした熱気の淀みを夕立が洗い流して、空気は涼しく澄み渡っていた。
「夕立があってよかったな……」
肌に触れる外気が心地いいので、普段はしない寄り道でもしてみようかと思いながら、私は校門を出た。
最初のコメントを投稿しよう!