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最悪だ。なんでよりによって今日いるんだ。私は苛立ちから貧乏ゆすりをしたくなるのを必死に我慢しながら、薄暗い教室の中、自分の席で数学の宿題に取り組むふりをした。本当は数式になんて全然集中できていなくて、ノートの端にひよこの絵なんかをちょくちょく描きながら教室の様子を見ている。
今日こそ、奥村紗彩から、私のチケットを奪い返すつもりだったのに。奥村は見栄っ張りだから、美術展のチケットは人に見せびらかすために学校に置いているはずだ。奥村が放課後にかばんを教室に置いたまま委員会に参加しに行かねばならない、月に一度の今日が絶好のチャンスだったのに。
普段なら人一人いないはずのこの放課後の教室には今、私の他にクラスメイトの雨宮明美がいる。雨宮はやたら長い髪をなびかせて、これまたやたら長いスカートをばさばさいわせながら窓際に向かって行っている。
昼間は嫌になるくらいにじめっとした日差しが照りつけていたのに、今は窓の外では三十分ほど前から地面に叩きつけるように雨が降っていて、水が流れ続けている窓から校庭の様子も見えないほどであった。
教室の前の時計を見ると、もう四時半が近かった。早く奥村のかばんからチケットを取り返さないと、委員会や部活に行っている奴らが戻ってきてしまう。
「あー、雨やばくない?」
窓の外を見ている雨宮が不意に言った。今教室には私と彼女しかいないので、話しかけられているとしたら私なのだが、独り言ともとれるトーンだったので、私はノートの上の数式に向き合い続けた。
「ねえ、古瀬」
「……え?」
「あんた、古瀬って名前だよね?」
私は戸惑いながら、はあ、ともはい、ともとれない返事をぼんやり返した。
「あのさ、この雨どれくらいで止むか分かる? あたし今スマホ電池切れててさ」
知るかよ、という本音をしかめっ面で飲み込みつつ、さあ、と返事をする。
「夕立っぽいので、あとちょっとしたらおさまるんじゃないですか?」
「いやあ、あとちょっとじゃ困るんだよ。」
雨宮は大げさに肩をすくめながら、窓際から離れ、近くの席の机によりかかった。
「どれくらいあとか分からないじゃん。あたし五時からバイトなんだよ。こんな雨にチャリじゃどこも行けないし」
雨宮って、バイトしてたんだ。さほど意外でもなかったが、なぜか誰に対しても横柄なところがあり、クラスの中でも得体の知れない方だったのでなんだか感心してしまった。
しかし、感心している場合ではなかった。あのチケットの奪還のために雨宮には早く教室から出て行ってもらいたく、彼女自身も行かねばならないところがあるならさっさと向かってもらうのが吉である。
「バイトは、歩いては行けないんですか?」
「んー、歩いて電車乗ったら三十分くらいかかるんだよ。この雨だともっとかかるだろうし、着いたらびしょ濡れでバイトどころじゃなくなるじゃん。」
確かに、この豪雨の中に移動するのは難しそうだった。でも、ならばせめて、教室以外のところで雨が弱まるのを待って欲しかったが、このクラスメイトを教室から追い出すようなきっかけを私は見つけられなかった。
「古瀬ってさ、放課後のこういう時間いつも教室にいるの?」
雨宮は、雨が止むまで教室で待つことにしたらしい。私の前の席の椅子に勝手に腰掛け、仕方ない暇つぶしにといった風に話しかけてきた。
「まあ、時々は」
数学のノートから顔をあげないまま、適当に返事をした。普段話もしない奴との世間話に真面目に答えてやる必要はない。私は大体、授業が終わったらとっとと家に帰っているが、放課後残って何かしらの用事を片付けていることもある。課題を終わらせたい時や、奥村が雑用を押し付けてくる時がそうだ。
「へえ。そうやっていつも勉強してるわけ?」
「はあ、そんな感じです」
「そんな感じ? じゃあ古瀬は、何も部活入ってないの?」
私は数学のノートをあげて雨宮の顔を見た。
「入ってないですけど、なんですか?」
心なしか、トゲのある言い方になってしまたが、雨宮は気にしていないようだった。
「いや、なんでもないけど。あたしも入っていないよ」
「そうですか」
「入りたいとも思ったけど、バイトも多めにシフト入れたいからやめたんだ。古瀬は? なんで入らなかったの?」
雨宮は聞いてもないことを話してくるし、話したくないことを聞いてきた。
「いや、なんとなく、別にいいかなって思ったんです」
「そうなの? 気になった部活とかあったでしょ?」
私は雨宮の顔をまじまじと見た。今日ほぼ初めて話したというのにあり得ない距離の詰め方だし、色々私について決めてかかってくるのがかなり腹立たしい。ただでさえ彼女のせいで私の計画が現在進行中で阻害されているというのに。苛立ちが募った私は、もう話しかけてくれるなという言葉が頭に浮かんだ。でも、いつだって自分のための言葉は口から出ないのだ。妙な沈黙が落ちた時、教室の扉ががらりと開かれた。
「おっ、雨宮、この時間まで学校いるの珍しいじゃん」
「おう田中お疲れー。部活終わったのか?」
「いや、俺はサポーター忘れたから取りにきただけ。雨宮はどうしたんだ?」
「この雨でバイトに行けなくてさ。ここで古瀬に相手してもらって雨が止むの待ってる」
「そっか。じゃあな。バイト遅れないといいな」
「ありがとー」
雨宮はひらひら手を振って田中を見送った。
「……仲良いんですか?」
「田中? まあ、席近いし」
「そうですか」
「で? 気になる部活なかったの?」
私は小さく溜息をして答えた。相手してもらっている、と明確に言われたので、毒気も抜けてしまった。
「美術部が……、美術部がなかったから、何にも入らなかった」
雨宮は頬杖をついていた手から顔を上げ、感心したように「へえ」と言った。
「古瀬って、絵描くの好きだったんだな」
「さあ、そうでもないですけど」
「あ? 好きだから美術部入りたかったんじゃないの? あ、ていうかさ、絵描くの好きなら、美術の授業で選ばれた成績優秀なやつがエントリーできるっていう美術コンテストあるじゃん? あれ選ばれたりしてるの?」
「あーあれ……」
私はどう返事するか逡巡した。私たちの住んでいる自治体では、地域内の多数の高校から優秀作品を選出し展示するコンテストが定期的に開催されている。そのコンテストに出展する作品を、この高校では美術の授業で作らせた課題から選び出す。私も以前出展に値する絵を描いたとして、エントリーさせてもらったことはあった。ただ、一番最近のコンテストの参加者に私は選ばれていない。返事に迷ううちに、自然とペンを持つ手に力が入っていく。窓に打ち付ける雨粒の音はどんどん大きくなっている。
「あれさ、出展作品に選ばれると賞品に近くの美術展のチケットもらえるじゃん?」
そうそう、そのチケット。
「昨日奥村が自慢してたんだよな。チケットもらったし、コンテストでも最優秀賞も狙えるって先生に言われたとかって」
私がもらうはずだったチケット。
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