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と、ここまでが普段通りの市川家の風景であった。
何一つ変わらず、平々凡々の様相で、まさかこの五日後に里帰りした千鶴共々、父、継母、妻、そしてせんの惨殺死体をこの目で見る事になるとは夢にも思ってみなかったのである。
その日は市川は知人の家に碁を打ちにいっていた。
昼頃には帰る、と家人に言いおいていたが久しぶりの友との逢瀬に酒はつきもの、ましてや勝負事をしているのも相まって後一勝負、後、一飲み。そうやって言い訳しながらずるずると長居をしてしまう。
これはまずい、と気が付いたのは辺りがが赤く染まる頃で、すっかり夕刻の空だった。
「ああ、しまった。帰らねば」
「なにをそんなに急くことがある。いっそ、今日は泊って行くが良い」
「いいや、今日ばかりは帰らねばならん。なぜかと言うとな、妹が里帰りをするのだよ。そんな席に俺がいなければ、妹も立つ瀬がなかろう」
「まあ、それはそうだな。女とはどうでもいい心配を常にしている生き物であるからな。こちらがそんな風に思っていなくとも、もしや兄様は私の里帰りをよく思っていてはくださらなかったのだろうか、などと親父殿や母上にこぼされてみろ。針の筵だぞ」
「ああ、それは地獄だな、それも潔白であるのに、女共の噂話だけで俺は罪人だ。まさしく、そいつは地獄だよ」
気心のしれた相手と冗談を言いあって帰路につく。
ほろほろと酔った心もちで歩いているので、四半時(30分)の道のりがやけに遠く感じられた。それでもその道中、帰ったらなんと言い訳しようかしら、これからは家の中に女が四人、男は二人で随分肩身が狭くなる、それに千鶴の中に入っている赤子ややは男か女か。そんなことを考えもって歩いていると、我が家が見えた。
夕刻、そろそろ夕闇である。かしましい女の園になっている筈の我が家はなぜか、しん、としていた。
「はて、なんぞの用があって連れだって出かけたのだろうか」
そう思いながら屋敷の門をくぐり、下駄を一歩、地につけた瞬間。
ふわり、と濃い鉄錆のような匂いがした。
「おおい」
所在なく、呼んでみる。
返事はなかった。
そこで、初めて嫌な予感がした。
下駄のまま、屋敷に押し入る。
……夕闇の、薄墨のような視界の中で見たもの。
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