不覚の仇討ち

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その後、役人や噂話によると。 市川が町奉行所で御取調べを受けている頃、馬杉剣道場に駆け込んだ役人衆が見たものは。 馬杉雪之丞は出奔した後の様だった。 しかし、その後にあったのは。 臓腑(ぞうふ)であった。 (はらわた)であった。 腹を掻っ捌かれた馬杉雪之丞の父が剣道場の中庭に放り出されていた。腹からどろりと中身が出ていたが、それだけではない。 大半の中身は撒き散らされていたそうだ。 それはまるで、鳥葬の支度のようであったと、誰かが呟いた。 「小間切れなのよ。小さな鳥が啄ついばみやすいように……。それが整えられた小さな庭に、ざばざばざば……とな」 間取りを知っている市川は馬杉の道場の中庭の様子を思い出してぞわり、とした。 そして、もしも自分が夕刻までに帰っていたら、と考えてさらにぞわぞわとしたのだ。 (きっと俺も、馬杉の凶剣の餌食であった) しかし、胸を撫で下ろす訳には行かなかった。 何故、と思っている。 (何故、父まで殺したのだ) おかげで、俺は仇討ちをする羽目になってしまった。 江戸の世の掟では、仇討ちというものは正式に認められざるものであったが、しかしその実は一種の美徳として人々に受けいられていたので幕府は黙認、と言う形を取っていた。 そのやり方というのは。 まず、仇討ちをする旨を上役に申し伝える。それを多くの上役が「相解った」と二つ返事で藩主に返事を乞う。これまた二つ返事で藩主も「ふむ、そやつは忠義の男じゃ。脱藩を認めようではないか」とこう、お決まりの手順を踏むのだが。 仇討ちをするには脱藩せねばならぬ。 すなわち、浪人になるのだ。 市川左近は勤勉で真面目であったけれど、命を賭けて何かを守るだとか、親から女房、子供の類を無残に斬り殺した男に復讐の誓いを立てる、などと言った気概は一切持っていなかった。 仇討ちには明確な掟がある。 それは、長幼の序だ。 子が親の仇を討つ。 だが、妻の仇は討ってはならぬ。 子供の仇も討ってはならぬ。 だから、何故、父まで殺したのだ、と市川は思った。
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