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(父が殺されなければ俺は仇討ちなどしなくても良かった。そもそも仇討ちなどしたくもない。なのに、皆が俺の顔を見るなり、言うのだ。「仇討ちをする気でござるな」と。俺は一切そのような気はない。家族を失ったのは悲しいし口惜しいが。それよりも、己の身が可愛い。幾人も無残に殺して平気の心もちの鬼に俺が叶う訳はないのだ。考えても見ろ。俺は算盤が得意だが、やっとうはうまくない。算盤で、剣に勝てるのか。そんなもの、考えるまでもないのだ。ああ、なぜ。もしも父が殺されていなければ、俺は皆に憐れまれ、少し後には後妻などを紹介もしてくれる人も現れたろうに。父が、殺された。それだけで俺はどこにいるかも解らぬ、それも勝つ見込みもない相手を血眼で探さねばならぬ。明日をも知れぬ浪人になって、だぞ。俺は今年四十だ。ああ……やりとうない……仇討ちなど……)
と、常にそんな事を思いながらも世相には叶わぬ。
「仇討ちをなさるのですな」
と、出会う人間、出会う人間に言われてしまって、「したくない」とは言えなかった。
「はあ……左様で……」
そう言うのが精一杯だった。
そして厭だ厭だと思いながらも、上役に仇討ちの旨を申し伝え、脱藩したいと申し出た。
それをしたり顔で「相解った、万事良くいくように整えてやる。お前は忠義者よ。必ず馬杉の首を取り、大手を振って戻ってくるが良い」と上役は頷いた。
何故。と思う。
何故、俺が仇討ちなどせねばならぬ。それも到底勝てぬと解っている男に挑まねばならんのだ。
そんな思いは常にあった。
渋々、己の長年暮らした屋敷を売り払い、金を作った。行きたくもない死出の旅路に相違あるまい、と市川は思っていた。仇討ちの美談はよく聞くが、それと同時に悲惨な話も大層聞く。
探し求めていた相手が病死していた、だとか。
仇討ちをしたが、返り討ちにあった、とか。
もっとも悲惨なのは金がなくて餓死した男の話だ。
(俺もいずれそうなるであろうなあ……。返り討ちにあうのと、相手が見つからなかったというのと。一体どちらが幸福なのであろうか……。いっそ、侍を捨てて商人にでもなってやろうか)
ぼんやりと思いながらも旅は続く。
馬杉雪之丞。美丈夫で、剣の腕前は確かだ。
たったそれだけしか、市川は馬杉について知らぬ。
顔は知っているが、絵もうまくない。
絵の上手い奴に人相書きを頼むのであったと思っても後の祭りだ。旅のいづれかで人相書きを頼めば良いと思っていたのだが、よくよく考えてみれば、馬杉雪之丞と言う男をまじまじ見た覚えがなかった。
だから、うまく絵師に伝えることが出来ず、断念した。
(会えば、解る)
それは、解る。と市川は思っている。
何故なら市川は馬杉が苦手だ。あの、ぐにゃりと歪んだ笑顔は一度見たら忘れまい。
あんな顔は、地獄の中の鬼しかできない。そう思った程ーー気味が悪かったからだ。
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