不覚の仇討ち

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馬杉雪之丞。驚いたことに奴は名前を変えずに堂々と生きていた。 最初の一年程はまことにあてのない旅と言えたが、徐々に馬杉の噂はあちらこちらでちらほらと聞くことが出来た。どうも、やっこさん血狂いのようだ。そう、市川は思った。聞く話、耳にする噂が血生臭い。 (人を斬って、癖になったか馬杉雪之丞。ああ……俺の他に奴を狙う男達も増えよう。どうか、目の前で死んでくれ。そうしたら、俺の旅も終わる。頼むから、どこかで討たれたというのは無しだ。もっと言えばとっくに墓の中に入ってしまっておれば、形無しだ) 仇討ち。それは相手が死んでしまってはどうしようもない。相手は死んでおりました、では許されぬのだ。国には帰れよう。だが、脱藩した後の男の行き先はない。勘定方の元のお役目にも戻れない。 元の生活をするには、父の仇討ちを見事成し遂げ、意気揚々と故郷に帰らねばならんのだ。 焦る気持ちを抑えながらも三年の間、旅をした。 そうして、とうとう噂話だけであった男の所在を突き止めた。 駿河国(するがのくに)である。 どうも、海の漁村の離れの小屋に居ついている、と解ったのは江戸の街道沿いの宿場町で「馬杉を知っている」と言う男に残り少ない旅銀で酒を奢ってやった時だ。 酒を一合、二合。まあ飲め、それ飲めと注いでやっているうちに男は機嫌よく、馬杉のことを話してくれた。 「俺の姉御が嫁いだ村でね。そこに痩せこけてはいるが美しい侍が療養しているっていうのを聞いた覚えがある」 「療養?」 「どうもね、そこいらで強い道場に道場破りに行ったそうだが、辛からく勝ってね。真剣勝負だったが腕を斬られたそうだ。それで、その男はとある海鮮問屋の用心棒をしていたそうだがその縁えんあって、おらが姉さんの村に居るそうだ。それも、病気になっている」 「病気」 「腕は治ったそうだが、海風と慣れぬ暮らしで風邪をこじらせて肺を患ったそうだ。労咳ではないそうだが、あれは長くない。そういう風な具合だそうだ」 「なるほど」 それは、好都合だと市川は心の中でほくそ笑んだ。 (これは、観音様の思し召しだ。今こそ、馬杉の奴めを討ちとる絶好の機会ではないか) そう思った。
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