不覚の仇討ち

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その話を聞いてから三日かけて市川は駿河の国へと向かった。潮の匂いがする場所が多い。海の近場である証拠だった。 話を聞いた場所はどうにも寂しい村だった。女、子供は多いが男は少ない。波の高い場所へ漁へ出て、帰ってこない男が多いと聞いた。 そこいらの日陰にいた婆さんに声をかけると、親切にも出涸らしの茶と瓜の塩漬けを出してきて、市川の疑問にけらけらと笑いながら答えてくれた。 村の情景は。 寂しい色の海と、砂粒で描いたような朧気な空だ。ちっともすっきりと見えないのは、何故だろうか。靄がかかったような、そんな空だった。 潮の匂いに魚の腐った匂いが混じる。砂場に建てられた粗末な小屋の群れの簡素な事。後に聞いた話では、この辺りでは嵐が多いので、いくら家を建てても崩れるのだそうだ。ならばいっそ、壊れてよし、の家で良かろうとそういう習わしになったそうだ。乏しい暮らしには間違いないが、見た目ほど困窮はしておりません、と婆さんは言っていた。 「それにお侍さん。昼時を過ぎますとね、村の男達は家から出てきませんですよお」 「なぜだね?」 「うちの息子もそうですが、漁師の男はね、夜遅くに出かけます。朝早くに帰ってきます。それで自分の道具、片付けますとね。酒を飲んで寝ちまいますよう。昼時はまだ酒でも喰らってるでしょうが……それとも子作りィ」 「子作り」 「だってお侍さん……夜出来ないんですから……いつヤるってのさ」 ほほほ……と笑う婆さんの亭主も海で死んだという。海に出向く男達は生きて帰ってくるものもいれば、帰らずの男も多い。だから子作りも大事な仕事だと婆さんは言いながら、皺だらけの手の人差し指をすっ、と突き出して村はずれの小さな小屋を指した。 「お侍さん。あんたが探しておらっしゃる馬杉って男はあの中ですよ。どうぞ、引き取ってくださいな」 婆さんの顔は笑っていたが、どうも、含みがあった。 「……お前さんは馬杉の事は嫌いかね」 市川が聞くと、婆さんは自分の鼻を指した。 「あの男はいけませんね。どうも、穢れの匂いがします」 「穢れ、か」 「ええ、血なまぐさい匂いがするんですよ、お武家様。ここの所、不漁でしてね。それに、若い男衆が三人、波に呑まれました。どうも……あの浪人が来てからです。海の神様は女の月の物も嫌います。だけどもあの人の匂いはねえ……もっと生臭い……いけませんよ、あの御仁は」 婆さんが言うのを市川は黙って聞き、頷いた。 (あいつは血狂いになってしまっているのだ。だが、それも今日で終わりだ。男を見せろ、市川左近。親の仇を討ちとって、いざ故郷に帰らん、だぞ) 自然に刀に手が行ってしまう。勇み足なのは解っているが、三年だ。 三年、馬杉を探し当てるためだけに生きてしまった。だが、これ以上はうんざりだ。ここで決着をつけて、一息つきたいとそればかり考えた。 婆さんに礼を言って、歩き出す。老婆が示した小屋は他のどれよりも新しかった。近づくにつれて、小さな咳が聞こえた。こんこん、という可愛げのある咳ではなかった。ぜいぜい、げひげひ、とでも言おうか。肺の底から病んでいる、といった音だった。 市川は歩みながら太刀の柄に手をかける。そして、小屋の扉、に見立てた筵むしろに触れるか触れないかの時だ。中から声が聞こえた。 「誰だ」 その声は、紛れもなく聞き覚えのある声である。 何も言わずに刀を抜き、筵に手をかけ、押し入る。 が、そこまでであった。押し入った市川の首の血脈が通っている辺りにぴたり、と白刃の煌めきが添えられていたのだ。 「これは、これは誰かと思えば」 ぜいぜい、と喉音を立てながら笑う男がいる。 体は痩せこけて、はだけた寝着から見える肋骨よ、胸板の薄さの驚くべきことよ。それなのに、久方ぶりにあった馬杉雪之丞の顔ときたら。白い肌と相まって、随分艶めかしくなっていた。快活とはいかぬまでも、剣道場の若先生として木刀を握り、鍛錬していた頃に比べると、美丈夫と呼べぬ有様になっていたが、病に侵されてもなお、美しさの根本は馬杉の体から抜けていないようだった。 いや、なお美しいのだ。 不健康な美しさだ。
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