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まさに市川左近にとって仇討ちとは、不覚の事態であった。
それも、あの馬杉雪之丞が相手である。
(勝てる気がしない。する訳がない)
まるで悪夢の様だと思いながら、この一月(ひとつき)の間。
市川は本心では全く気が進まないのに「恐れながら……」と上役に仇討ちの旨を申し伝え、脱藩したいと申し出た。
それをしたり顔で「相解った、万事良くいくように整えてやる。お前は忠義者よ。必ず馬杉の首を取り、大手を振って戻ってくるが良い」と上役は頷いた。
何故。と思う。
何故、俺が仇討ちなどせねばならぬ。それも到底勝てぬと解っている男に挑まねばならんのだ。
市川左近はとある小藩の勘定方である。先祖代々、勘定方である。算盤の腕は極めて良かった。が、それだけである。特筆すべき箇所は何もない。勤勉、真面目が取り柄の男であった。
今年四十になる。父と継母と妻のかめ、そして一人娘の今年十二になるせんが市川の家族であった。遅い結婚だったがそれなりに良縁を掴んだと思っている。
血のつながりを持った者はもう一人いる。それは妹の千鶴だ。千鶴は市川と十五ほど離れている。父が二度目の妻に産ませた子であるが、市川は千鶴を可愛がってやっていた。
彼女の嫁いだ先が、馬杉雪之丞、その男の家だった。
馬杉の家は由緒正しい道場だ。小さいながらも門下生が多く、豊かな暮らしが出来ていますとつい先日も不意に我が家に立ち寄った千鶴がふくよかな顔で高価な紅や、せんの為に買った手毬を妻に渡しているのを黙って見ていた。
馬杉雪之丞なる男は剣鬼と呼ばれるほど、強かった。御前試合でも勝てる男がおらず、「つまらぬ」と殿が言うので審判役になった男だ。そんなにも腕が立つのに殿の剣術指南役になれぬ理由を雪之丞の父が酒の席で教えてくれた。いつの機会だか忘れたが、馬杉とその父と三人で飲んでいた時の事だ。
天才にはよくある事だ、と前置きしながら馬杉の父がぼやいたのである。
「この愚息は、手加減が出来ぬのだよ。木刀にしろ、竹刀にしろ。もちろん真剣もそうだ。立ち向かう者があれば、斬る。打つ。倒す。それしか出来ぬ無骨者で……。腕はいいが、剣道場の師範にはいささか……難がある」
「父上。私は……剣が好きでしてな。剣を振るうのが好きだ。剣の柄を握りますと……もう……たまらなくなりましてね。なんだか可哀そうで」
「可哀そう?」
「剣とは、斬るもの、突くもの。寸止めをするのは可哀そうだ。人の血肉をね……味合わせてやりとうて……切なくなるんです。ああ、一度でいいから思う存分剣を振るってみたい」
ふふふ、と笑う馬杉は剣の腕もさることながら、美丈夫でもあった。そんな男が剣の魅力について語る時、市川は背中にうすら寒い物を感じたのだ。
それは妖気、とでも言おうか。それとも、狂気だ、とはっきり口にするか。
どちらにしても。
普段気さくな馬杉の顔が艶味のある笑みを浮かべてぐにゃりと歪むのを見てしまってから。
市川はこの義理の弟がどうにも苦手になった。
千鶴がそんな馬杉の所へ嫁いでから一年程たった今月初旬の頃である。
「ややが出来ましたので、里帰りをしたく思います」
そんな書状が春先の市川家に一通、届いた。
そんな嬉しい便りに市川家は華やいだ。市川の妻は女児一人しか産めなかったのを常々気に病んでいたのでお目出度い便りながらもさっ、と一瞬顔を曇らせたが、市川が肩を抱いてやると、気丈にも笑顔になって「千鶴様、ご懐妊、目出度いこと。早う、支度をいたしませぬと」
と気遣う亭主に微笑んだ。
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