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敗戦
もうすぐ冬が終わる。北欧の島国であるトゥーレにとって歓ばしい穏やかな春が訪れ、そして短いが太陽の祝福する激しい夏がやってくる。だが、その部屋は日の光を拒絶するように厚いカーテンがひかれていた。広大な提督の公室には異様な殺気に満ちていた。重厚なオーク材のテーブルの前で提督は目を瞑って腕を組んでいる。提督の姿は決して動かぬ塑像のようにさえ見えた。
「提督、やりましょう。残った燃料は既に掻き集めました。主機の修理も完了、砲弾その他の弾薬も充分あります」
「駆逐艦2隻、魚雷艇4隻、砲艦3隻も出航準備が完了しています。また海軍航空隊ならびに空軍の一部も上空支援を約束しております」
「敵はろくに海軍の運用も知りません。イギリスが供与したアルハンゲリスクは脅威ですが所詮は旧式です。何、キーロフ級重巡洋艦など彼女に比べればものの数ではありません!」
「同盟国ドイツもヒトラー総統も徹底抗戦を望んでいます。現にアルデンヌでは大勝利をおさめつつあり、連合軍を撃退しています。春になればきっと東部戦線でも新たな勝利を収めるでしょう」
「上陸するソ連の船団を撃滅しましょう。彼女ならできます!」
目を血走らせた海軍の青年将校たちが提督に詰め寄る。
提督は腕組みをしたままだった。提督の姿勢そのものが不退転の決意をあらわしていた。
「ソ連になど降伏する必要はありません! 一度、連中を叩いてあとあとイギリス、アメリカ相手に交渉すればいいだけではないですか!」
「我々の力を見せましょう! トゥーレは決して屈しないのだと」
「不当な休戦条約など呑むわけにはいきません。我が国の港湾のほとんどを租借、軍備の制限など全面降伏に等しい屈辱です」
「戦いましょう。まだ我々は負けたわけではありません」
「そうです。我々には彼女がいます!」
1人がカーテンを開けはなった。
提督は椅子を回して窓の外を見つめた。神々が切り取ったような鋭角的な崖、フィヨルドに囲まれた港湾に一隻の白い艦が停泊していた。敵である連合軍からは巡洋戦艦や高速戦艦、建造したドイツでは紛うことない戦艦、トゥーレでは古めかしく外洋戦列艦と呼ばれていた。
「〈シグルーン〉は勝利のルーンを意味します! 彼女こそ我々に勝利を約束してくれます!」
提督は目を細めた。そして青年将校たちに向き直った。
「ソ連との休戦は議会が決定し国王陛下が承認された。これは国民の意志だ。海軍はそれに従う。そうでなくて何の海軍なのか。海軍は我々の私兵ではないのだから」
「しかし……」
「諸君たちの気持ちは嬉しく思う。最後まで彼女と共に戦わんとするその意気を私は生涯忘れないだろう」
尊敬する提督にこれ以上何かを言うことはできなかった。暗い提督公室に青年将校たちの嗚咽が響いた。
提督は〈シグルーン〉を見つめた。彼女は世界の全てから隔絶しているかのように、冬の終わりの光に照らされてただそこに憩っていた。
彼女は美しかった。水面に映える優雅で誇り高い彼女の姿は、賞賛の的で、また誉れだった。誰もが彼女を慕い、麗しい彼女の姿を愛する故郷に重ねた。
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