19人が本棚に入れています
本棚に追加
夏休み
太陽がゆっくりと青黒い海の向こうから這い上がってくる。うっすらと金色の光を纏う紅色に染まった朝焼けを引き連れて。今日も北欧の島国トゥーレのよく晴れた暑い夏の一日がはじまろうとしていた。
期末試験の後、夏休みを待つ数日はじりじりする程遅く感じられた。通知表を貰い先生の小言を聞くという儀式を終えた後、ようやく迎えた夏休みの一週間は驚くほど早く過ぎてしまった。しかし、まだたっぷり一ヶ月ある。祖父母の家には昨日きたばかりだった。
は夏休みのほとんどを、両親と弟、妹と共に祖父母の家で過ごす。今年の夏は小遣いを総動員して買った舶来の自転車があった。今期の成績は、とてもよく、特に継母は大満足で小遣いを奮発してくれた。
イェルドは早朝、自転車を駆って隣町のへ向かうつもりだった。観光地として知られているタルンカペには賑わっている海水浴場があるが、イェルドは海水浴ではなく、祖父が教えてくれた釣りの穴場に行こうとしていた。釣具は、昨夜のうち、こっそりと納屋から出していた。釣具一式を背負い、亀のような形をした水筒、乾パンをザックに詰めて肩にかける。イェルドは屈んで靴紐を締めなおした。祖父母の家に山ほどあるダブダブの作業用のズボンの裾を少しめくる。長めの黒髪が揺れた。中学二年生にしては、いささか背が低く貧弱な体格だった。顔つきも、優しげで子供っぽい。イェルドは、早く髭でも生えないかと思っていたが、それもまだのようだ。ここにきてから一週間では、あまり陽に焼けてもおらず、夏用の白い半袖シャツからのぞく腕は、まだ生白く、自分でも少々がっかりする。早く日焼けしたかった。夏なのに腕が白っぽいのは格好悪い。
納屋から新品の自転車を出す。スマートな銀色の自転車は乗るのが勿体無いようで、少しだけ眺めてみる。さっと吹き抜ける朝の風が涼しく心地よい。
ペダルに足を乗せた瞬間、食器の割れる音と父の怒鳴り声、母の泣き叫ぶ声が聞こえた。
毎度のことだった。祖母は朝からこのところ毎日続く両親の喧嘩に不機嫌だったし、家にいても、とばっちりを食うだけだった。不景気の影響で重役をしていた会社が倒産して以来、父はむっつりと塞ぎこみ、何か癇に障ることがあると、すぐに手をあげる。母はそんな父にいつも腹を立てていた。三年前までは、一緒に釣りに連れていってくれた祖父は呆けてしまい、映画に出てくるゾンビのように痩せ衰え、家中をうろついていた。弟と妹は、家の手入れをしていない庭で遊んでいるようだった。弟と妹と同じくらいの小学校低学年の頃、庭で遊んだが、何をして遊んだのかは、もうよく思い出せないし興味もない。一緒になってなぜか妹まで泣き出したようだ。イェルドは慌てて、自転車を漕ぎ出した。もたもたしているとイェルドにまで飛び火しかねなかった。緩い坂を下ると、祖父母の家がどんどんと小さくなる。
脱出成功。
昨日、観にいった戦争映画の真似をしてみる。主人公が脱出すると敵基地に仕掛けられた爆弾が大爆発し、屋根が千切った紙細工のように舞い上がるのだ。「ドカーン」と呟いてみるが、家は爆発しない。だが、とても爽快な気分だった。
最初のコメントを投稿しよう!