夏休み

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 自転車は引力に引かれ、快調に坂道を下っていった。カラカラという軽い車輪の音が響く。少し危ないくらいの速度が出る瞬間をイェルドは好んでいた。 正面からの風圧で、ふわっと自分の身体が浮き上がりそうな気になる。長い坂道を下った後、平坦な道を走る。町を少し離れれば、草ぼうぼうの野原が広がっていた。いずれは住宅地になる予定で、あちこちで作業機械が耳を聾するばかりの騒々しい音をたてている。喧騒の中をイェルドの自転車は軽やかにすり抜けていく。しばらく漕ぐと高速道路に出た。大型トラックが並んで五台は走れそうだが、工事の車両くらいしか行きかっておらず、すぐに渡ることができた。だが、夏休みも本番になると隣町の海水浴場に行く観光客で混み合うだろう。  この高速道路に沿ってタルンカペに行くのではない。もう少し走ると三叉路があって、そこからタルンカペへと出ることができる。自転車で行くのなら、こちらの方がはるかに早かった。三叉路に差し掛かると、一息ついて水筒の水を飲み干す。朝、詰めてきた井戸水はひどく冷たく旨かった。再度、力強くペダルを漕いで、走り出す。周囲は虫の羽音と丈高い草のかすれる音しかしない。工事や自動車の音がどんどんと遠くなっていった。風が頬に心地よい。日はすでに高く上り、透明な陽の光がイェルドの肌をチリチリと灼く。     光が自転車に反射して踊る。このあたりでは、よく見ることのできる白い石筍が顔をのぞかせていた。中には十メートルに達するものもあった。大地から突き出した牙のようにも見える。都会育ちのイェルドにとって、田舎は何もかもが新鮮だった。空を見上げる。深く、青く晴れた夏空。  しばらく、自転車を走らせると森に覆われた丘が姿を現した。背の高い木々が影を落とし、まるで洞窟のように暗い空間を形作っていた。 イェルドは脚に力を入れて一気に上ろうとする。だが、傾斜がきつく息切れした。何度が自転車から降りて息継ぎをしながら、なんとか上りきった。一気に坂を駆け下る。ひんやりとした森の空気がイェルドと自転車を包みこむ。気持ちよかった。  駆け下り、森のトンネルを抜けたその場所にタルンカペはなかった。雑貨店や土産物屋が軒を連ねる賑わう商店街の端に出るはずなのに、目の前には、コンクリートで固められた巨大な岸壁、廃墟と化した港が広がっている。こんな場所にはきたことがなかった。  イェルドが振り返ると、丘の斜面には、鬱蒼と茂る森に囲まれた古ぼけた洋館が建っていた。誰も住んでいそうにない。ぐるりと周囲を見渡す。廃港はこの国特有の切り立った崖……フィヨルドに囲まれている。   ここは……どこだろう?  引き返すことを考えたが、それ以上に廃港に興味がわいた。イェルドは周囲を見渡しながら歩き出した。廃墟が立ち並ぶうら寂しいこの場所には人気が一切ない。がらんどうの倉庫や円柱形の燃料タンクが立ち並び、錆び付いた起重機が白骨化した巨人の腕のように聳えている。長い間、波風にさらされた結果、足元のコンクリートはひび割れていた。       潮の香りが濃く漂う中、ときおり、むっとするようなガソリンの臭いが鼻をつく。足元を見れば燃料タンクから漏れた廃油が溜まっている。羽音と叫び声に空を仰げば、千切った綿のような雲を背景に鴎が舞っている。イェルドは自転車を引き廃港の中を歩く。死んだような静寂だけが全てを覆っている。波の音だけが聞こえる。。  不意にイェルドの目に飛び込んできたものがあった。 それは死にかけた風景の中で唯一つ昂然と存在していた。一隻の巨大な軍艦が港にその身を横たえていた。 「戦艦だ……」
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