真夏の夜がおちる時 ①

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真夏の夜がおちる時 ①

 たった一日だけ俺より先に所々へこんだ隼で飛び立ったばかりに、もう二度と貴様と会えなくなってしまった。  次会うときは英霊として落ち合おうと誓い合った橘は無事敵艦に到着したのかすら分からない。ただ分かるのは、橘は死んだということだ。  橘はいい奴だった。  俺の賜った出撃機は橘の旅立った翌日、敵空襲で燃えてしまった。  あれだけ心を駆り立て俺たちの熱望した特別攻撃に参加できない。その事実に俺を含めた同じく出撃機を失った数名は絶望した。  神になれ。貴様らは神だ。英霊だ。  そう言われ続けていた俺たちだったが、今は毎日喋ることなく塹壕掘りをしている。  延々と塹壕を掘っていると、今まで不思議なくらいに怖くなかった死というものが恐ろしく感じてしまう。  だからだろうか。その日から毎晩、橘が夢に出るではないか。  まだ来ぬ俺を恨んでいるのか……ともかく毎晩夢に出るのだ。  夢に出てくる橘は、とくになにを言うわけでもない。ただじっと俺を見ている。  赦してくれと伝えても、夢に出てくるこの橘は何も話してはくれない。  はじめて橘が夢に出てきてから四ヶ月が経った八月十四日。  その日の夜は冷夏にしてはやたらと蒸し暑い。  そんな日も橘は当たり前のように夢に出る。相も変わらず何を言うでもなく、感情のない顔でじっと俺を見つめるだけだ。 「なあ、橘。もう赦してくれとは言わない。連れていってくれ、俺もそっちに」  俺がそう言うと、橘はゆっくりと首を横に振り、口をぱくぱくと動かした。 「死ぬな?」  その唇を読んで伝えると、橘はひとつ頷いた。 「やっぱり橘は非国民だなあ。だいたい橘が特別攻撃作戦の批判ばかりぼやくから真っ先に逝くことになったんだろ?」  橘は俺とは違って使い捨てられていい人間ではなかった。 「本当はあの隼、俺のだったのに。それにあの本……なんだったたか? ほら、軍曹殿から燃やされてたやつ」  ぱくぱくと動く唇が国家と革命だと告げる。 「俺には何が書いてあるかすら分からなかったよ。たぶん軍曹殿も知らんだろうさ。非国民め。え? ドイツ語訳だから非国民じゃないって? また軍曹殿に殴られるぞ。そもそも本の持ち込みは厳禁だったろう?」  橘との思い出は今でも鮮明に思い出せる。  学徒動員まで勉強しかしていなかったガリ勉の橘と、手先の器用さしかいいところがなくすぐに志願兵になった俺は、なぜだかどうして馬が合いよく行動を共にしていた。  兵士としては俺の方が年功序列で上ではあったが同じ歳、同じ少尉ということもありやたらと話が合うのだ。 「まったく橘はいつも本が読みたい読みたいと俺を困らせて……挙げ句本の調達にいつも俺を巻き込んで……楽しかったな」  そう言うと橘は微笑むばかりで沈黙が続いた。  夢だというのに満足に口もきけんとは不自由なことだと思う。 「……明日の重大放送とはなんだろうな。貴様は死んでいるから、もう知っているんじゃないのか?」  そう言うと今まで微動だにしなかった橘は俺を抱きしめると、自分の唇で俺の唇をふさぐ。  その途端に流れ込んでくる感情は俺のものじゃなかった。  ひとつの感情以外はどう考えても俺じゃ思い及ばないことだらけなんだから。  そこで俺は驚いて飛び起きた。寝汗で額が濡れている。なんて夢だ。  しかしこの肌や唇に橘の感触が残っていた。ふと俺のものではない汗のにおいが漂う。日々焦がれていたにおいだ。 「橘よ……幽霊ってやつも、あったけえんだな」  確かにここに橘がいる。  窓の外を見ると、もう空は明るくなっていた。
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