プロローグ

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プロローグ

 定時を少し過ぎて会社を出ると、すでに雨が降り出し地面を激しく打ちつけていた。窓の外がどんより暗いと思ってはいたが、ブラインドのせいだと思い込み深く考えてもいなかったのが仇となる。  雨足は強くなる一方で、ビルを出てすぐの軒下で立ち尽くしていた。通りを行き交う人たちはほとんどみな傘をさしている。雨が降ることを前もって知っていたみたいに、リズミカルな足音が近づいては遠のいていき、ピシャリピシャリという水音がずしりずしりと私の心を重たくした。  今夜の天気は雨予報らしい。普段からあまり天気予報を見ない上に、今朝はスマホアプリでも確認しなかったたため、折りたたみ傘さえ持ち合わせていなかった。  いったんビルのエントランス内に戻り、雨が弱まるのを待ってから、最寄り駅かコンビニまで走ることに決めたが、雨足の強さはしばらく経ってもほとんど変化はない。  何度も自動ドアを行き来していたが、もう面倒くさくなって再度ビルの軒下に立つ。仕方なく走ろうとため息をついたそのときだった。  出先から帰ってきたと思われる一人の男性が傘を閉じて、足早にエントランスへと向かう自動ドアの少し手前で立ち止まった。ふとこちらを見たかと思うと、自動ドアが開いていたにもかかわらず、ためらいなく近づいてきて私の方へと傘を差し出す。 「よかったらどうぞ」  仕立てのよいスーツを着た男性で二十代後半だろうか。三十手前の私よりは若く見える。あまりに自然な流れで戸惑うが、知らない人にいきなり傘を借りるのもどうかと思い慌てて断った。 「いえいえ、とんでもないです」 「まだ会社に置き傘がたくさんあるので持っていって下さい。返してもらわなくても大丈夫なので」  男性は私の断りにも動じず、引くことなく再度傘を差し出した。  少しためらいはしたが、本音で言えば傘はうれしかった。ここまで言ってくれるのなら断るのも好意を無下にするようで失礼だと思い、ありがたく受け入れることにした。 「じゃあ……」  遠慮ぎみに傘を受け取る。 「……ありがとうございます」  私が軽く頭を下げると、男性は右手を上げ颯爽とビルの中へと入っていった。  そのおかげで私は雨に濡れることもなく帰宅することができ、今もなお玄関に紺色の男性用傘が立てかけてある。毎朝異質な空気を放っているそれを目にするたび、私は何とも言えない気持ちになった。返すべきか否か……
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