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潮の香りは、空一面に夏の色を与え続けている。波の音は、砂浜を吹き抜ける風に夏の香りを沁み込ませている。
西から差し込む強い日差しが、俺達の影を砂浜に描く。午後五時。夏の夜の訪れは遅い。
「うわ、あっちー!」
いつの間にか靴や靴下を脱いでいるタローが、砂浜の上でジャンプしながら声をあげた。
「砂浜熱っちー!」
「あたりめーだよ、今日何度あったと思うんだよ」
「軽く俺らの体温くらいじゃね?」
頭に人気バンドのスポーツタオルを被った山ちゃんがバカ真面目に答えている。
高校の夏期講習の帰り。夏休みという名の長期休暇真っ最中とはいえ、高校三年生の夏は忙しい。タローがすでに投げ置いている鞄の横に、俺も鞄を並べた。雑草の生えている部分とそうではない部分では、砂のかたちが違う。
「てかさー、今日の数学の小テスト、やばくね? 難すぎじゃね?」
砂浜の熱さに耐え切れなくなったタローが海の波打ち際まで走っていくのを眺めながら、山ちゃんは言う。
「やべーよ、俺らがやべーよ」
「だよなー!」
ぎゃははとスポーツタオルで短髪をがしがしと拭いた山ちゃんの頬は、夏休み前よりも日焼けしている。
高三の春にゲットしたスポーツブランドのスニーカー越しにも、砂浜の熱が伝わってくる。自分の全体重を受け止める感触は、アスファルトの上にいるよりも心許ない。海水によって足裏を冷やしたのか、再びこっちに戻って来るタローの姿を眺めていると、
「サクはさー、」
俺と同じ先へと視線を向けている山ちゃんがつぶやいた。
「進学先とか、もう提出してんの?」
普段とは変わりなく聞こえる山ちゃんの軽快な声が、潮の香りを含んだ風に混ざった。
汚れたスニーカーを片方ずつ両手で持ちながらこちらに歩いてきているタローは、県外にある大学への進学を決め、焦点を絞った勉強方法を始めている。それは俺達の間でも周知の事実で、だけど三人で話している時にはなんとなく軽口を叩けない話題だった。
少々悩んだ後で俺が答えようとした時、タローが俺達の間に割り込むように入ってきた。
「なになに、何の話?」
ヘアワックスでセットされたタローの髪は、汗で少し濡れている。夕方になっても暑さがやむことはない。
「来週の夏祭りの話」
山ちゃんがさらりと話題を方向転換させると、タローは途端に口を尖らせ、山ちゃんを睨んだ。
「おまえはいいよなー、どうせカノジョと行くんだろー」
持っていたスニーカーを砂の上に投げ捨てながらタローが言うと、山ちゃんはまんざらでもないように頬を掻きながら笑った。
「それがさ、聞いてよ。里香ちゃん、浴衣を着てくれるんだって」
「まじかよリア充爆発しろ!」
タローは心底うんざりしたように砂浜に座り、再び熱っちーと声をあげた。学習能力のないその様子に俺は苦笑し、視界の先に広がる海を眺める。
海の向こうに存在する水平線はほんのわずかだ。小さな島やその奥にある半島の先などによって、海の果てを俺の目で確認する事はできない。空を映した水面は、今日一日を凝縮したような光をキラキラと照らしている。
俺達はこの海のある小さな町で育った。タローとは保育園時代から、山ちゃんとは小学校の頃からずっと一緒だ。この砂浜はいつの間にか俺達の拠り所となり、季節の色を放つ海を眺めながら様々な過ごし方をした。普段はふざけてじゃれ合い、時には真面目に真剣な話を、俺達にとってここはなくてはならない場所になっていた。
「あら、サクちゃん」
犬と共に散歩をしながら俺を呼んだのは、二軒隣のおばさんだった。この砂浜はこの町の住人達の散歩コースにも使われている。
「こんにちは」
「こんちはー!」
俺の挨拶と被るように二人が声を張り上げ、おばさんは大きな麦わら帽子の影から微笑みを見せた。
「あらあら、夏休みなのに、今日は学校だったの?」
「夏期講習だったんです」
「せっかくの夏なのに、大変ね」
おばさんの連れている柴犬は、慣れた様子で俺達を見守るように見上げている。砂浜から見える公道でも数匹の犬が散歩に連れられているようだ。いつもの夕方の風景、田舎あるあるのひとつだ。
サクちゃん、とおばさんは先ほどよりも神妙な顔つきで、もう一歩俺に近づいた。
「お母様のお具合はいかが?」
そして近所の人が自分の家族事情を把握している事も、田舎あるあるだ。タローと山ちゃんがふっと視線を逸らした事に気づきながら、俺は曖昧に返事をした。その空気を読み取ったかのように柴犬が軽く吠え、それを合図におばさんは笑顔を残して去って行った。
「あー、明日も学校かよ。もはや夏休みじゃねーじゃん」
砂の上に座ったままのタローが嘆いたのと同時に、スマートフォンの電子音が小さく鳴り響いた。俺のものではない。きょろきょろと視線を動かしたタローの横で、「あ、俺だ」とつぶやいた山ちゃんが途端に口元をほころばせ、スマホを手に持ったまま鞄を置いてある方へと走っていった。
「里香ちゃんからだな。あいつ、分かりやすいよなー」
手のひらで砂を掬っているタローの手は、たぶん俺のそれよりも大きくてごつい。子供の頃は俺よりも小さかったタローは、いつの間にか俺の背を追い越してしまった。
海に視線を向けると、確実に日の光が低くなっていっているのを感じた。じりじりと肌を焦がしていた太陽は、放物線を描くように地上へと真っ逆さまに落ちていく。
山ちゃんの笑い声が風に乗って流れてくる。山ちゃんが一学年後輩である里香ちゃんと付き合い始めのは半年前の事で、順調に続いているようでよかったと思う。その反面、寂しくもある。山ちゃんの時間の一部は里香ちゃんのものとなり、俺達は三人でつるむ事が少なくなった。だから、今日は久しぶりに三人で海に来ることができて嬉しかったのに、こんな時まで里香ちゃんを優先する山ちゃんに俺は苛立ちを覚え、その瞬間に消えたくなるほどの罪悪感が胸をよぎった。
「サク、どうした?」
俺の心情を読み取ったようなタローの鋭い視線を頬に感じ、俺はなんでもないと笑って、タローの横に座った。砂に温度が通っているのは表面だけで、指先で掻き分けた砂の奥はひんやりとしていた。
海水によって濡れていたタローの足は、茶色や白で混じった砂を張り付けたまま乾き始めている。
「タロー、夏の模試はどうだったの」
将来の夢を具体的に語り、県外の大学の受験を決めているタローは、こう見えて成績を伸ばし続けている。できるだけ避けている話題をこうして口にできたのも、潮の香りや二つの青を放つ景色のおかげだろうか。
それなりだったよ、と答えたタローは、いつものふざけている幼馴染とは別人のようで、俺は会話の続きの糸口を見失ってしまった。
高校三年生の夏休みが終われば、秋がやってきて、推薦組はそこで進路が決まるのだろう。冬がやって来て年越しをすれば受験組も就職組も慌ただしくなり、あっという間に春を迎えてしまう。幼い頃には遠かったはずの未来が迫っている。時間は俺達を待ってはくれない。日焼けしたタローの横顔には未来への期待が滲んでいて、電話をしている山ちゃんは新しい世界を手に入れている。
俺だけが取り残されている。心地の良い砂の感触に埋もれたまま、打ち寄せ続ける波に引き寄せられたまま、身動きもとれない。
やーごめんごめん、とスマホを片手に山ちゃんが軽い足取りで戻ってきた。山ちゃんが歩くたびに、柔らかな砂に足跡がしるされていく。首にかけられた人気バンドのスポーツタオルも、山ちゃんが里香ちゃんとデートした時のものだった。ライブ翌日に嬉しそうに話してくれた山ちゃんの表情を思い出し、俺は口を尖らせた。
「山ちゃん、いつまで喋ってんだよ」
「え?」
「せっかく俺らがいるのにさ」
あ、やばい、と心の警報が鳴った時には遅かった。罪悪感を上回る言葉が、喉元に熱を与えていく。隣でタローが目を見開いたのが分かっているのに、止まらない。
「最近ずっとそうじゃん。里香ちゃん里香ちゃんって、高三になってからずっと」
口先から零れる言葉には悪意ある感情ばかりが含まれていて肝心の意味を成さない。それでもその言葉の端々を捕らえた山ちゃんが首元のタオルに触れ、何かを言い返そうとした時。
何かが引き裂かれるような音が鳴り響き、俺達は空を仰ぐように視線を動かした。先ほどまで明るかった空が急に暗くなっているのは、決して日の入りのせいではない。
ゴロゴロという不穏な音、そして刹那な光。
「雷だ……」
タローが言ったのを合図に、ぱらぱらと水滴が俺達の頬を濡らし、それらは瞬く間に大粒となって視界を遮るほどのものとなった。夕立だ。
「ぎゃー、やっべー!」
さらさらとした感触だった砂があっという間に水分を含み、俺達の制服を汚していく。俺達は慌てて立ち上がり、鞄を置いてある方向へ走っていく。当然のように鞄もびしょ濡れだ。
海の向こうに見えていたはずの景色は厚い雲に覆われ、光を受けていたはずの水面はもはや何も映していない。未来はいつだって不透明だ。隣にいるタローや山ちゃんの姿すら、大きな雨粒によって曖昧になっていく。
本当は知っている。タローが県外の大学に行きたいと告げた時、声が震えていたのは不安だったからだ。山ちゃんは一学年下の里香ちゃんと付き合うと決めた時、一年後には同じ学校にいられなくなる事を気にしていた。
再び何かを破り裂いたような轟きが雨音や水音に混じり、俺はおかしくなってふっと息を吐き出した。
「サク……?」
派手なスポーツタオルを被った山ちゃんが、怪訝な声で俺をうかがう。ますますこの現状が滑稽に思えて、俺は今度こそ声をあげて笑った。
これまでだって楽しい事ばかりではなかったはずだ。習っていたサッカーもいつの間にか飽きてやめていた。好きだった女の子に告白して玉砕した事もあった。それでも、三人で過ごせば怖いものがないと思い込めたのはどうしてだろう。海の力なんかではない。決して短くはない時間がもたらしてくれたもの。
俺の笑い声につられたのか、タローと山ちゃんも笑い出した。お洒落にセットしているタローのヘアスタイルも崩れてびしょ濡れだ。制服の白いシャツも、黒いズボンも、お気に入りのスニーカーも、水や泥を受けてどろどろなのに、やけに爽快な気分だった。
「やべーよ、びしょ濡れじゃん」
「母ちゃんに怒られる!」
「てか明日も学校だよ、どーすんだよ」
俺は、雨音に負けないくらいのボリュームの声を張り上げた二人を見る。頭から滴り続ける雨水が目に入り、目の奥が痛んだ。
「ごめん……」
俺がつぶやくと、雨の向こうにいた二人の笑い声がやんだ。
焦るあまりに嫉妬に駆られてひどい事を言ってごめん。雨音だけが俺達の間に佇んでいたのもほんの束の間で、何言ってんだよ、と笑ったのは山ちゃんだった。
「気にしてねーよ」
「でも……」
「悪かったって。でも里香ちゃんと同じくらい、おめーらの事も好きだぜー!」
冗談交じりに叫んだ山ちゃんは、濡れたタオルを振り回しながらテンションを振り切るように濡れた砂の上を走り出した。山ちゃんの気遣いに触れ、俺は喉元にぐっと力を入れて、声をあげる。
「そこまで重い愛はいらねーぜー!」
「うっそ、ひっでー! 俺の一大告白だったのに!」
「サク、山ちゃんじゃなくて俺にしとけー!」
俺は山ちゃんを追いかけるように走る。雨の中を駆ける。濡れた砂は先ほどと感触を変え、走り続ける俺達を受け止める。
「そっかそっか、サクは寂しかったんだなぁ」
俺に追いついたタローが俺の肩を抱き、得意顔で笑った。
「だーいじょーぶだって! 俺らズッ友じゃん!」
「いや、それはさみーわ!」
「さみーさみー! 夏なのにさみー! てか古い!」
ぎゃははと品のない笑い声をあげながら、俺達は再び濡れた砂の上に座り込んだ。
不安な事は簡単には消えない。数年前に体調を崩した母は今でも臥せる事が多いし、相変わらず将来の夢は具体的に定まらない。それでも、どうにかやっていくしかないのだろう。大人になるという事。いつか、今この瞬間を思い出して、懐かしさに浸る日がやって来るのだろうか。
次第に雨は弱くなり、西の空から淡い光が見え始めた。午後五時半。空と海のコントラストが曖昧になり、一つになる。
「あ、虹だ!」
海と砂浜の境界線に浮かぶ七色が、ぼんやりと景色に彩りを与えていた。本日最後の光の分散。明日には形を変えた光が再び俺達を照らしてくれるだろう。
帰ろうか、と誰ともなく言い、俺達は立ち上がり、砂のついたズボンを濡れた手で払う。悲惨な状態になった制服や鞄をどうするかはさておいて、帰宅までの時間はまだ俺達のものだ。
いつの間にか雨はあがっている。
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