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「あれ、水無月さんは……?」
昼休憩、課長から頼まれた仕事を終えてデスクに戻ってきた一花は空っぽになった水無月の席を見ながら呟いた。
「あー、外でランチだって言ってたけど」
答えたのは同期の松本だった。彼は残念そうな表情で「昼飯に誘ったら断られてさー」と肩をすくめた。
「まあ、いきなり誘われても断られるの普通じゃない? 松本、なんか軽いし」
「ひでぇ……」
彼はわざとらしく傷ついた顔を浮かべながら「つうか」と眉を寄せた。
「ランチは一人で食べたいんだってさ。たぶん、如月が誘っても断られるぞ」
「そんなことないでしょ」
一花は笑う。
「女同士だし。わたしが彼女に仕事教える係だし。それに――」
――水無月だし。
一花は心の中で呟く。松本は不思議そうに「それに?」と首を傾げた。
「いや、なんでも。とにかく明日は誘ってみようかな」
「やめとけって」
「え、なんでよ」
「休憩時間なのでって言われたんだぞ。彼女、たぶん契約した時間以外は仕事と完全に切り離すタイプだよ。下手に誘って仕事やりづらくなったら面倒だろ」
「大丈夫だって。戻って来たら明日のランチ一緒に行かないか聞いてみる」
笑いながら返した一花に松本は心配そうな表情を浮かべたが、すぐに「ま、別に俺はいいけど」と呟きながら立ち上がった。
「せいぜい頑張れよ」
そう言い残して彼は昼食を食べに出て行った。
大丈夫だ。だって彼女は水無月なのだから。彼女が男からの誘いを断るのは当然のこと。そして自分の誘いが断られるわけがない。
――だって、あの頃は。
一花は高校時代のことを思い出す。昼休憩。生徒の立ち入りが禁止されていた屋上へと続く階段。そこに座った彼女の笑顔は今でも忘れられない。美味しそうに一花が作った弁当を食べてくれた彼女の笑顔が。
「今日はタイミングが合わなかっただけ」
そう自分に言い聞かせて一花はバッグからパンを取り出し、デスクで昼食をとりながら彼女の帰りを待つことにした。しかし、戻って来た水無月は一花の誘いをあっけなく断った。
「――え、なんで?」
思わず素で聞いてしまった一花に、彼女は「休憩は一人で過ごしたいので」と特に取り繕うわけでもなく言った。それは完全なる拒絶の言葉。一花は呆然としながら彼女を見つめる。
「それより如月さん、この作業に使う資料ってどこにありますか?」
一花のことなどまるで気にした様子もなく、彼女は午後の仕事を開始していた。モニタを見つめる水無月の横顔が記憶と重なる。
それは彼女が興味のないクラスメイトに向けていた表情と同じもの。あの頃は、一花以外の人間に向けられていた表情だった。
「如月さん?」
答えない一花を不思議に思ったのか、水無月がその顔を一花に向ける。
――如月!
記憶の中で同じ声が一花を呼ぶ。しかし、目の前にいる彼女は記憶にある彼女とは違う。そのときふと鼻をくすぐったのは苦い香りだった。
――煙草の香り。
そうか、と一花はようやく気づいた。彼女は変わってしまったのだ。
いま目の前にいる水無月叶向は、あの頃の彼女ではない。当然だ。あれから十年。変わらないわけがない。
変わっていないのは自分だけ。
――やっぱり、わたしだけがおかしいんだ。
「あの……?」
少し困ったように首を傾げる水無月に一花は笑みを向けた。
「資料は共有フォルダにまとめて保管されてますよ。フォルダの場所は――」
説明をしながら腕を伸ばして彼女の端末を操作する。水無月は頷きながら一花の説明をメモに取り始めた。試しに少しだけ椅子を移動させて近づいてみる。水無月の表情に変化はない。たださっきよりも強くなった煙草の香りに一花の心が乱されるだけだった。
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