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「如月、仕事は大丈夫なの?」
「大丈夫だって。今日は早出して頑張ったからね」
月曜日。定時で退勤した一花は会社の前で水無月と待ち合わせてアパートへ向かっていた。もちろん水無月には行き先は告げていない。そのせいだろうか。一花に手を引かれて歩く水無月はどこか不安そうだ。
「ねえ、どこ行くの? こっちにレストランとかあったっけ? すごい住宅街なんだけど」
「えーと、ほら。隠れ家的な?」
良い言葉も思いつかず、一花は適当な言葉で繋ぎながら水無月を引っ張る。そしてアパートの前で立ち止まった。
「……ここ?」
水無月は不思議そうにアパートを見上げている。一花は彼女の手を握ったまま「そう」と笑みを向けた。
「わたしが住んでるアパートです」
すると水無月は目を見開き、そして困った表情を浮かべた。
「えっと……。え、如月の家で夕食?」
「というか、ケーキを食べてもらいたくて」
「ケーキ……」
不思議そうな彼女に、今度は一花が目を見開く。
「まさか今日が何の日か忘れてる?」
「如月、誕生日だっけ?」
本気とも冗談とも取れるトーンで彼女は言う。一花は少し笑いながら「今日は何月何日なのか声を出して言ってみる?」と首を傾げた。
「今日? 二月の……何日だっけ」
どうやら本当に意識していなかったようだ。彼女はスマホを取り出すと画面を見てから「あ、十四日」と呟いた。そして一花に視線を向ける。
「バレンタイン?」
「正解」
「もしかして、チョコくれるの?」
「彼女だからね。まあ、ケーキなんだけど」
言いながら一花は水無月の手を引っ張って玄関へ向かう。水無月は少しだけ迷う素振りを見せたが、大人しくついてきてくれた。
「狭いけど適当に座って? コートはここにかけていいから」
「うん……。お邪魔します」
おっかなびっくりといった様子で水無月は部屋に上がると、コートを脱いでテーブルの前に腰を下ろした。なぜか背筋を伸ばして正座をしている彼女に一花は苦笑する。
「緊張しすぎじゃない?」
「心の準備ができてなかったから」
「……準備、か。それは待ってたら準備できた?」
すると水無月は驚いたように一花を見た。思わず口をついて出てしまった言葉に一花は自分でも驚いて「ごめん。なんでもない」と謝った。そして笑みを浮かべる。
「ケーキね、秋山さんに作り方教えてもらったの」
「……美守?」
「そう。水無月の好きな味とか聞いてさ。この土日に作ったんだ。まあ、めちゃくちゃ失敗したから、もはや美味しいかどうかもよくわからないんだけど」
一花は苦笑しながら冷蔵庫からケーキを取り出す。何度も焼き直して、ようやく膨らんだスポンジケーキに甘さ控えめのチョコレートを塗り、やはり甘さ控えめの生クリームとイチゴで飾りつけたケーキ。ただし、見た目はひどく不格好な仕上がりになってしまった。
「こんな感じになったんだけど」
一花はおそるおそるテーブルへケーキを運んだ。それを見た水無月は「手作りって感じだね」と微笑む。
「頑張ったのに」
「悪いとは言ってないよ。如月っぽい感じがする」
「……それは良い意味?」
「もちろん」
彼女は微笑んだまま頷くと「食べてもいいの?」と静かに聞いた。
「あ、うん。待ってね。切り分けるから」
言って一花はそっとケーキにナイフを入れると皿に取り分けた。水無月は皿に置かれたケーキをフォークで少し取ると口に運ぶ。
「……どう?」
「うん。美味しい」
「普通に?」
ニヤリと笑って聞くと水無月は不思議そうな表情を浮かべた。しかしどうやら思い当たる節があったらしい。彼女は苦笑する。
「根に持ってんの? お弁当の感想」
一花は笑う。彼女が覚えてくれていることが嬉しかった。初めて一花が作った弁当を食べてくれたときの感想を。水無月は「でも」と懐かしそうな表情を浮かべながら続ける。
「今では普通に美味しいって凄いことだと思ってるよ。わたしが作る料理、全然普通に美味しくないから」
「へー、食べてみたいかも」
「美味しくないって言ってるのにチャレンジしようとしないで」
彼女はそう言うと控えめに微笑んで「ごめんね。わたし、何も用意してないや」と続けた。
「いいよ、別に」
「でも――」
「今日は水無月がこうして家に来てくれただけで嬉しいから」
本当はアパートの前まで来たときに帰ってしまうのではないかと思っていたのだ。まるで騙し討ちのように家へ連れて来た一花に対して怒るのではないか、と。しかし彼女は何も言わず、こうして家に来てくれた。それだけで充分だ。
「――さっき言ってたこと」
水無月はフォークを皿に置くと食べかけのケーキを見つめながら口を開いた。
「ん、なんだっけ」
「待ってたら準備はできたのかって」
「ああ、あれは気にしないで――」
「ごめん」
水無月は呟くように謝った。
「……なにが?」
「如月が不安になってるの、わかってた……。如月が悲しそうな顔をしてるのも知ってた。何を求めてるのかも、たぶんわかってる。でもわたし、何も気づかないふりしてた」
「……なんで?」
一花が聞くと彼女は顔を上げて「だって」と泣き出しそうな表情を浮かべた。
「如月が――」
「うん。わたしが?」
一花はテーブルの上に置かれていた水無月の手に触れる。
「如月が変わっていくのが、怖くて」
「……そりゃ変わるよ」
一花は微笑む。水無月は目を潤ませて眉を寄せた。
「なんで?」
「だって、変わりたいから。前にも言ったじゃん。わたしは好きが欲しいんだよ。水無月だってそうでしょ?」
「そうだけど。でも如月はもう、わたしにはないものを持ってる気がして」
「それはそうだよ。わたしと水無月は違うんだから」
「え……」
水無月は傷ついたような表情を浮かべる。そんな彼女の頬に手をやりながら「わたしと水無月は似てるけど違うよ」と続けた。
「だって水無月もわたしにはないもの持ってるじゃん」
「わたしが?」
「そうだよ。わたしは水無月みたいに誰かのことを想ってそんなに苦しんだことはないし」
「でもこれは、欲しかったものじゃない」
「そうだったとしても、それは水無月だけが持ってるものでわたしにはないもの。きっとわたしが水無月のことをこんなに知りたいって思う気持ちも、水無月にはなくてわたしだけが持ってるものだよ」
「――如月、わたしのこと好きなの?」
「その質問、そっくりそのまま返すよ」
すると水無月は笑った。涙に濡れた瞳で綺麗に笑う水無月に、一花もまた笑みを向ける。そして彼女の頬に触れていた手を下ろしてそのまま彼女を抱きしめた。
「高校の頃からずっとわたしは水無月のこと知りたかったんだよ。水無月、わけわからなかったからさ。でも、どう頑張っても水無月のことはわからなかった。ちゃんと付き合い始めてからも水無月はわたしのこと聞いてくれない。だから、やっぱりわたしには興味ないんだって、そう思って――」
「違う」
胸元でくぐもった声がした。彼女は両手を一花の背中に回しながら「違う」と繰り返す。一花は笑って彼女を抱きしめなおす。
「うん、今はわかってるよ。秋山さんからも色々聞いてさ、ようやくわかった。水無月は怖がりなんだよね。見かけによらず」
抗議のつもりなのだろうか、水無月はグリグリと頭を左右に振る。一花は笑いながら「わたしたちはさ」と浅く息を吐く。
「もういい年なのに、中身は高校生以下かもしれないね。ほんと、子供も子供だよ」
「如月は大人だよ。ちゃんと成長してるじゃん」
「それは水無月もだよ。こうしてちゃんとやり直そうとしてるじゃん」
水無月は何も言わない。ただ震えた息遣いが聞こえるだけだ。一花は彼女を包み込みながら「わたしたち、中身は子供だってことにしてさ、ちゃんと順を追ってお互いのこと知っていこう?」と続けた。
「わたしは水無月がなんで苦しんでるのか知りたいし、水無月にはわたしのことを知ってほしい」
「……もし、それでお互いのことが嫌いになったら?」
「十年だよ? 十年、こうしてお互いのことを考えてる。いまさらそれくらいで嫌いになったりするかな」
「するかもしれない」
「でも、しないかもしれない。それに――」
一花が言葉を止めると水無月は顔を上げた。その瞳は涙で濡れていた。一花はそっと身体を離すと彼女の涙を片手で拭ってやる。
「手に入るかもしれない。ずっと欲しかったものが」
「……そうなったら、どうなるかな」
「さあ。別にどうにもならないんじゃない?」
すると水無月は笑った。笑って、そして深く息を吐き出して顔を俯かせる。少し気持ちが落ち着いたのかもしれない。彼女の涙に濡れた顔はどこか晴れやかに見える。
「水無月」
まだ彼女の瞳に残っている涙を拭いながら一花はその綺麗な顔を覗き込む。
「今日、泊まっていく?」
水無月は目を大きく見開いた。一花はそんな彼女に微笑むと「聞いてほしいな。わたしのこと」と言った。
「そして水無月のことも聞きたい。水無月がどんなことに苦しんできたのか」
「……主に如月のことだけど?」
「うん、それでもいいよ。知ろうよ、ちゃんとお互いのこと」
一花は再び彼女の背中に手を伸ばすとそっと抱き寄せる。
温かな彼女の身体からは甘い香りがする。目を閉じて彼女の首筋に顔を埋めると、微かに彼女の心臓の音も聞こえてくる。その音すらも温かい。
「明日も仕事だけど」
「服、貸してあげるよ。ブラウスくらいならサイズも合うんじゃない?」
「……襲っちゃうかもよ?」
「いいよ。どんとこい」
「色気がない」
息を吐くような笑い声と共に、背中に水無月の片手が触れた。その手は迷うように一花の背中を撫でる。
「如月」
「ん?」
「なんであのとき、小野寺と付き合ったの?」
「前も言わなかったっけ?」
「中途半端な答えしか聞いてない」
「そっか……」
一花は強く彼女を抱きしめながら微笑む。
「水無月のそばにいたかったからだよ。水無月が苦しむなら距離を置いてみたらどうかって。そしたら水無月、いなくなっちゃったけど」
「ごめん」
「うん。わたしも、ごめん」
「――もっと聞きたいな」
水無月のもう片方の手が一花の背中に触れる。二人は座って抱き合ったままフフッと息を吐いて笑う。
「ケーキ食べてよ。せっかく水無月のために作ったのに」
「あとで食べるから、もう少しこのまま話そう? 朝まで時間はあるんだし」
「朝までって……。オールからの仕事ってキツくない? わたしたち、体力的には子供じゃないからね?」
水無月が笑う。その息がくすぐったくて一花は少し身体をよじる。しかし水無月はそんな一花を逃すまいとするかのように力強く抱きしめてきた。
「聞かせてよ、如月のこと。いっぱい、いっぱい」
「いいよ」
そうだ。時間はたくさんある。今日も、明日もこれからも。
だからいっぱい話そう。無駄にしてしまった十年分、たくさん、たくさん。
そうすればきっと、水無月と出会ってから胸の奥でくすぶっていた気持ちの正体がわかるはずだから。
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