欲しいもの

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欲しいもの

 コートのポケットに両手を入れ、叶向は夜道を一人歩いていた。少し湿気を帯びた空気には、ほのかに春の香りが混じっている。気温は低いが、二月までの寒さとは少し違う。  叶向はふと足を止めて頭上を見上げた。図書館裏にある小さな公園の木々たちは大きく伸びた枝を歩道にまで広げている。街灯に照らされたその枝の先には小さなつぼみがいくつもついていた。  ここまで歩道に飛び出ているのだ。いずれはこの枝も切られてしまうかもしれない。それはこの桜の花が咲く前か、散った後か。  ――この公園も、桜が咲けば人が集まるのかな。  そんなことを思いながら叶向は再び足を進めた。  季節的にも送別会の時期だからだろう。夜の飲み屋街は普段よりも人の姿が多い。みんなすでにほろ酔い気分らしく、楽しそうな笑い声が響いている。  そんな飲み屋街の通い慣れた道を歩き、見慣れたドアを開ける。カランとドアベルを鳴らして中に入ると、まるで我が家に帰ってきたかのような安心感を覚えて叶向は思わず息を吐いた。 「人の店に入ってきて、いきなりため息?」  カウンターの向こうでこっちを見ながら秋山が軽く睨んでくる。叶向は「違うって。安心したの」と苦笑しながら店内を見渡す。相変わらずの満席だ。 「カウンターは空けといたから」  言われて視線を向けると確かにカウンター席に客の姿はなかった。叶向は礼を言っていつものように椅子に腰掛ける。するとカクテルのグラスが静かに目の前に置かれた。 「まだ頼んでないけど?」 「お疲れ様ってことでわたしの奢り。最初はどうなることかと思ったけど」  そう言った秋山の視線は優しい。叶向は微笑みながら「ホントだね」とグラスを手にした。それは淡い水色と緑色のカクテル。きっと名前もついていないカクテルなのだろう。彼女が叶向に出してくれるカクテルはいつだって余り物で作られた今の叶向にぴったりのものばかり。 「美守」 「なに?」 「ありがとう」 「え、なにいきなり。本気のトーンが気持ち悪いんだけど」  彼女は身体を軽く引いて眉を寄せた。叶向は「そんなに引かなくても」と苦笑する。 「たまには感謝もするよ」 「……へえ、そう」  素っ気ない彼女の返事に叶向は笑ってカクテルを一口飲む。アルコールは控えめでほのかに甘い。しかし後には残らないスッキリとした味で、ここに来る前に呑んだアルコールが消えていくような感覚を覚える。 「今日はあんたの送別会だったんでしょ? 今まではそういうのも絶対行かなかったのに、この一年で少しは大人になったってわけ?」 「そうかも」  微笑みながら答えると、秋山は拍子抜けしたような表情を浮かべてため息を吐いた。 「すっかり素直になっちゃって」 「美守が相手だからね」 「如月さんのおかげでしょ」 「そうだね」 「……素直なあんたは調子が狂うわ」  秋山はそう言うと他の客から受けたオーダーを作りに行った。その姿を眺めながら叶向は思う。  本当に秋山には世話になりっぱなしだ。高校を卒業してからずっと隣には秋山がいてくれた。叶向が間違ったことをしないように、ずっと。そんな彼女にどうしても聞きたいことがあった。その答えを聞かないと、秋山との関係をこのまま続けていくことはできない。  いつも通りに仕事をこなす秋山が愛想の良い笑顔を客に向けている。高校時代の彼女は興味のない相手に笑顔を見せることはなかった。それこそ叶向にも。  いつからだろう。彼女が叶向に笑ってくれるようになったのは。そして、こうして他人に愛想笑いを向けるようになったのは。  秋山を見つめて考えていると、彼女は睨むような視線を叶向に向けてきた。 「なんなの? そんなに見てきてそんなに見られるとやりづらいんだけど?」 「ああ、ごめん。つい」  叶向は笑って謝りながら「オーダー、終わったの?」とカクテルを一口飲む。彼女は「とりあえずね」と言いながら叶向の前に戻って来た。 「それで?」 「……ん、なにが?」 「何か言いたい顔してた」  彼女は言いながら煙草のケースを取り出した。叶向はその煙草ケースを見つめながら「いつから吸ってるっけ?」と訊ねた。瞬間、秋山は怪訝そうに眉を寄せる。 「なんで?」 「いや、なんとなく」 「――覚えてない」 「そっか」  叶向は笑うと小さく息を吐いて手元に視線を向けた。 「それが聞きたかったの?」 「違う」 「じゃあなに?」  叶向は顔を上げる。秋山は取り出した煙草を指で弄んだまま火をつけようとはしない。叶向はそんな彼女を見つめながら口を開いた。しかし、上手く言葉が出てこない。 「……なに?」  再び聞いてくる彼女の声は決して苛立った様子ではない。叶向は一つ深呼吸をすると「あのさ」と彼女の目を見つめた。 「なんで嫌がらなかったの?」  秋山は指で挟んだ煙草を揺らしながら不思議そうな表情を浮かべる。 「なにを?」 「だから、その、わたしと――」 「ああ、寝てたこと?」  何でも無いことのように言う彼女に叶向はため息を吐きながら頷く。 「まあ、そう」 「なんで嫌がるの?」 「だって気持ち悪いって前に言ってたじゃん。それにわたしは美守のことをさ――」 「代わりにしてたんでしょ? 如月さんの。それくらいわかってたし、だから寝てたんだよ。あんたと」 「……なんで?」  聞くと彼女は迷うように叶向から視線を逸らした。 「美守?」  叶向が彼女の顔を覗き込むと彼女は「……友達だから」と小さな声で答えた。それを聞いて叶向は首を傾げる。 「友達はさ、普通は寝ないと思うんだけど」 「だってそうでもしないとあんた、壊れそうだったでしょ」 「……そうだった?」 「そうだった。わたしがいても、あんたはダメになりそうだった。だからだよ」  その頃のことを思い出しているのか、彼女はどこか遠いところを見つめながら火のついていない煙草をくわえた。その姿を見てふいに記憶が蘇る。  学生時代の秋山の部屋。あのときも彼女は火のついていない煙草をくわえていた。あれはたしか彼女と初めて夜を共にした日のこと。ベッドの上に座った彼女はおもむろに煙草を取り出して言ったのだ。  ――如月さんは煙草吸うと思う?  高校卒業から如月と再会するまでの間、彼女が如月の名を口にしたのはその一度だけ。叶向が笑って「吸わないでしょ」と答えると彼女は煙草に火をつけた。そう、と笑みを浮かべながら。  ――思い出した。  あの時からだ。彼女が煙草を吸い始めたのは。そして、笑うようになったのも。 「わたしはもういらないでしょ?」 「……そうだね」  叶向は彼女を見つめながら答える。すると彼女は目を伏せながら笑みを浮かべた。寂しそうに、しかしどこかホッとしたように。 「でも、美守は必要だよ」  その言葉に彼女は視線を上げる。叶向は微笑んだ。 「誰かの代わりでいる美守じゃなくて、大切な友達の美守がわたしには必要」  彼女は叶向をじっと見つめてくる。叶向は微笑んだまま続けた。 「煙草、実は好きじゃないでしょ?」  すると秋山は無言のままくわえていた煙草を指で挟むと、それを灰皿に置いた。 「そんなものなくてもさ、美守のことはちゃんと見てるよ。ほかの誰でもない、秋山美守として」 「……ウソつき」  彼女は無表情に叶向を見つめながら呟いた。叶向は苦笑する。 「そうだね。たしかに今までは見えてなかった。ごめんね」  素直に謝ると、彼女は「気持ち悪いからやめて」と腕を組んで顔を背けた。それでも叶向は「うん。でも言いたくて」と言葉を続ける。 「きっとわたしはいっぱい美守を傷つけたよね。最低なことをした。本当に、ごめん」 「――わたしがそれで良かったんだから叶向が謝ることじゃない」 「でも、美守はずっと自分を主張してた。それにわたしは気づかなかったから」  叶向はカウンターの上に置かれた煙草のケースに視線を向ける。彼女が煙草を吸い始めた理由。それはきっと彼女が彼女であるということを叶向に忘れさせないためのもの。如月の代わりではない秋山美守という存在なのだということを証明するためのもの。  それに気づきもしなかった自分が情けない。しかし、きっと彼女は謝罪したところで怒るのだろうこともわかっていた。彼女はそういう人間だ。だから――。 「こんなダメなわたしだけどさ、これからも面倒みてよ。大切な友達として」  叶向の言葉に彼女は深くため息を吐いた。 「……なんなの、そのすっかり毒が抜けた態度。あんた、ほんとに叶向?」 「んー。如月のおかげかな?」 「如月さん、ね……。そういえば彼女にも先月、似たようなこと言われた」  叶向は首を傾げる。 「似たようなこと?」 「これからもよろしくって。あんたたち、ほんとに似たもの同士よね」 「そう?」  叶向は笑う。それにつられるようにして秋山も笑った。その笑顔は今まで見たどの笑顔よりも彼女らしい笑顔。秋山美守の笑顔だ。  そのとき、カランとドアベルが鳴った。 「ほら、あんたの大事な彼女が来たよ」  秋山が笑みを残したまま言う。見ると、入り口で「ごめん、水無月。なかなか抜けられなくて」と息を切らせた如月が立っていた。叶向はカクテルを飲み干すとコートを着て如月の方へと一歩踏み出す。 「叶向」  立ち止まって振り向くと、秋山が穏やかな笑みを浮かべて叶向を見ていた。 「欲しいものは見つかった?」  その問いに叶向は少し考えてから「どうだろう」と苦笑する。そして「美守は?」と聞いた。 「わたし?」 「見つかった? 欲しかったものは」 「わたしは――」 彼女は叶向を見つめ、やがてその視線を如月に向ける。そして困ったような笑みを浮かべた。 「半分ってところかな」 「そっか。でも美守ならきっと見つかるよ。今度はわたしが支えるから」 「いらない。めんどくさそうだから」  彼女は言ってから「でもさ」と如月を見ながら彼女は続ける。 「あんたの欲しいものはもう見つかってるとわたしは思うよ」 「え――」 「水無月、はやくー」  如月の声が響く。どうやらほろ酔いのようだ。叶向は苦笑して「じゃ、また」と秋山に手を振って如月の元へ行く。店を出るときに振り返ると、彼女はとても穏やかな表情で叶向と如月に視線を向けていた。
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