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「さっき、なに話してたの? 秋山さんと」
公園のベンチに座った如月が夜空を見上げながら言った。隣に座った叶向も同じように空を見上げながら「んー。色々」と答える。
「あー、わたしには内緒の話だ?」
「そういうわけじゃないけど……。てか、如月けっこう酔ってるね?」
叶向は視線を如月に向ける。公園の弱い街灯に照らされた彼女の顔色はよく見えない。しかしその態度はいつもより陽気だ。彼女はヘラッと笑うと「二次会から抜けるためにわざと酔う呑み方したからね」と答える。叶向はため息を吐いた。
「なにやってんだか。わたしと一緒に抜ければよかったのに」
「そういうわけにもいかなくて」
彼女はそう言うと叶向の肩に寄りかかってきた。
「なにかあったの?」
「うん。今日の飲み会、一次会は水無月の送別会だったんだけど二次会は松本の送別会だったんだよね」
「松本さん、辞めるんだ?」
「転職するんだってさ」
「……それは如月にふられたから?」
叶向が問うと彼女は吹き出すようにして笑った。
「違うって。あいつも言ってたよ? そんな気はなかったって。あいつに付き合う気はないからって伝えたときのわたしの気持ちを水無月に味わわせてあげたい。すっごい恥ずかしかったんだから」
「ふうん。彼の言い分を如月は素直に信じるんだ?」
「え、どういう意味?」
叶向は「いや、別に。気にしないで」と笑う。
「それで、松本さんの送別会から抜けるためにお酒をがぶ飲みしてきた、と」
「うん。あいつには悪いけど。でもちゃんとお疲れって言ってきたし。友達は続けるしね」
「……ふうん」
叶向の返事に如月はニヤリと笑った。
「ヤキモチ焼いた?」
「――少しでも『好き』はなかった? 彼に対して」
その言葉に如月はゆっくり身体を起こすと叶向へ顔を向ける。
「ないよ」
はっきりと、彼女は言った。真っ直ぐで嘘偽りのない綺麗な瞳で。
「わたしには? 如月がずっと欲しかったものは、わたしにある?」
彼女の綺麗な澄んだ瞳を見つめながら叶向は訊ねる。しかし彼女は答えず「水無月は?」と聞き返した。
「……わたしは」
さっき秋山が言った言葉が心のどこかに引っかかっている。
――わたしが欲しいもの。
好きが欲しかった。それは自分以外の誰もが普通に持っているもので、普通に恋愛ができる気持ち。しかし自分に好きはわからない。自分にはないものだ。そう思っていたのに。
――じゃ、わたしと付き合ってみる?
まだ子供だった頃の自分の声が記憶の中で言う。
どうして如月だったのだろう。どうして如月にこんなにも依存してしまったのだろう。他の誰かでも良かったはず。自分に好意を持ってくれる者もいたし秋山だっていた。それでも叶向の心にずっといたのは他の誰でもない、如月だ。
「――そっか」
叶向は息を吐きながら微笑む。秋山の言葉の意味が少しわかった気がする。
「如月だ」
すると如月が不思議そうな表情を浮かべた。
「なに?」
「わたしの欲しかったもの。如月だったんだ。きっと」
「……わたし?」
「そう。好きっていう気持ちじゃない。わたしは如月と出会ったときから如月が欲しかったんだと思う」
「ほんとに? なんで?」
「さあ。まだよくわからないけど」
「なにそれ」
彼女は少しがっかりしたように笑うと「わたしも、まだわからない」と視線を俯かせながら呟いた。
「水無月のことが好きなのかわからないけど。でも水無月のそばにいたいって思うよ。ずっと水無月のそばに」
「それはきっと『好き』ってことなんじゃない?」
「え、そうなの?」
「わからないけど」
「わからないことだらけだね」
叶向と如月は顔を見合わせると同時に笑う。そして「でも」と彼女は叶向の肩に寄りかかりながら続けた。
「十年もわからないままだったものが、少しわかりかけてきた気がする」
「あとちょっとで手に入りそうな予感?」
「だね」
如月は頷くと再び視線を頭上に向けた。その先にはつぼみをつけた桜の枝がある。さっきは横の歩道を通っただけだった図書館裏の公園。やはり遊ぶ者が少ないのか高校時代に比べて遊具が減っている。
「ここってこんなに桜の木があったんだね」
呟くように如月が言った。叶向は「そうだね」と頷く。
「いつ咲くのかな。お花見したいね」
「しようよ」
「でも、水無月って次の仕事は土日出勤のこと多いんでしょ? たまに夜勤もあるって言ってなかった?」
「言った」
「……やっぱり同じ職場じゃなかったら難しいね」
「そんなことないよ」
「でも時間合わないと、なかなか――」
「だったら一緒に住めばよくない?」
「あー、なるほど。それもいい……」
言いかけて彼女は身体を起こすと「いま、なんて?」と叶向を見た。
「だから、一緒に住めばよくない?」
「住むの?」
「嫌なの?」
「嫌じゃない、けど」
「じゃ、いいじゃん。付き合ってるんだし」
叶向が言うと彼女はきょとんとした表情を浮かべた。そして嬉しそうに笑う。
「そっか。そうだね。そうしよう!」
「そうすれば、きっと欲しいものが何なのかすぐにはっきりするんじゃないかな」
「水無月が欲しいものがわたしだって?」
「どうだろうね」
叶向は言いながら彼女の頬に手を添えるとそっとキスをする。ほんのりとアルコールの香りがするキスは高校時代にここでキスをしたときよりも甘い気がする。
「……今、何したの」
「ん、キスだけど?」
「なんで?」
「彼女だから?」
「ふうん。彼女、か」
如月は言いながら首を傾げると「じゃ、名前で呼んで?」と続けた。
「名前?」
「そう。秋山さんだけ名前で呼ばれてずるいって、ずっと思ってた」
「……一花?」
言われた通り如月の名を呼ぶと、彼女は「普通はそこ、照れながら呼ぶところじゃない?」と不満そうに眉を寄せた。
「えー、めんどくさ」
「めんどくさって……。叶向には言われたくない」
叶向と如月は再び同時に笑うと、お互いの頬に手を添えて自然と顔を近づける。再び触れた唇は温かくて柔らかく、心地良い。
「……この公園からちゃんとやり直しだね。わたしたち」
唇を少し離した彼女が囁くように言った。叶向は彼女と鼻先を触れ合わせて「だね」と微笑む。お互いの吐息が温かい。
叶向は如月とそのまま見つめ合うと、どちらともなく身体を離してベンチの背にもたれた。
「引っ越し、いつする?」
「いつでも」
二人の間に下ろした互いの手が触れ合う。
「満開までに間に合うかな」
「それは無理じゃない? もう来週には咲きそうだよ」
叶向が彼女の手を握ると彼女は指を絡めて強く握り返してきた。
「一花、わたしの休みに合わせて有休とってよ。余ってるでしょ?」
「あ、その手があったね」
強く握られた手から伝わるのは優しい温もり。
「夏祭りも行こうよ。一花の浴衣選んであげるから」
「覚えてたんだ?」
嬉しそうに笑う彼女の笑顔が愛おしい。
「そりゃ、覚えてるよ」
叶向は笑うと頭上に視線を向ける。真っ暗な夜空の中にはたくさんの桜のつぼみ。きっと満開になると綺麗だろう。その桜が散らないうちに二人で来よう。来年も、十年後も。その先も。
「毎年、お花見しようね。叶向」
叶向の肩に寄りかかりながら如月が言う。
「そうだね、一花」
叶向は彼女の手を強く握る。もう二度とこの手を離さないように。
正体もわからない欲しいものを探して迷子になったりしないように。
ふわりと吹いた夜風に混じる春の香り。その温かな香りは、まるで二人の背中を押してくれているようだった。
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