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「へえ……」
コトッと音がした。視線を向けると彼女がテーブルにグラスを置いたところだった。
「それはまた懐かしい名前。どこで?」
視線を彼女に向ける。その顔にはわずかに心配そうな表情が覗いていた。叶向は彼女にニッと笑みを向ける。
「職場。同じプロジェクトチームでわたしの教育係」
「マジ……?」
「マジ」
「たしか契約って」
「来年の三月まで」
すると彼女は額に手をあてると「それは……大丈夫なの?」と眉を寄せた。
「あんた、平気?」
「平気だよ。今日だって平気だったし」
「平気じゃなさそうだったけど? 昼間の様子だと」
「そんなことないでしょ」
叶向は笑ってカクテルを一口飲む。彼女は深くため息を吐いて「そんなことあるでしょ」と叶向の方に身体を向けた。
「わたしが作ったご飯、ほとんど残してたくせに」
「……それはだから、ごめんって」
叶向は顔を俯かせた。本当に悪いことをしたとは思う。しかし、どうしても食べることができなかったのだ。嬉しそうに料理を出してくれた彼女に、如月の笑顔を見てしまったから。初めて自分で作ったのだという弁当を一緒に食べたときの嬉しそうな笑顔を。
彼女と如月を重ねてしまった自分に嫌悪して、腹が立って動揺して、結局ほとんど食べることはできなかった。
「ほんと、ごめん……」
その謝罪は食事を残したことに対してなのか、それとも別のことに対してなのか叶向自身にもよくわからない。彼女はじっと叶向を見つめていたが、やがて「ま、いいけど」とため息を吐いた。
「理由はわかったから許してあげる。あんた、どうせ如月さんのこと意識してずっと気張ってたんでしょ? まともな会話もしてないとみたね」
「そんなことないよ。ちゃんと大人として最低限の会話はした」
「へえ、大人として?」
少し含みのある口調で彼女は言う。
「そう。大人として……」
叶向は微笑んでから「まあ」と首を傾げる。
「一回からかっちゃったけど。如月、わたしのこと別人なんじゃないかって疑ってたみたいだから」
ほんの少しだけいたずら心が出てしまった。彼女に自分のことを別人だと思われるのが嫌だったから。しかし、あの頃と同じ関係に戻ろうとは思わなかった。
そんな身勝手な言動に振り回される彼女の表情は見ていて面白く、懐かしく、そして申し訳なくなった。だからもうからかうのはやめようと心に誓った。
あの頃のように戻れないのなら、ただ悲しくなるだけだ。
「――やっぱ、戻って来ない方がよかったんじゃないの」
ポツリと呟いた彼女の表情は、どこか思いつめた様子だった。叶向は微笑むとテーブルに視線を落とす。
「かもね」
進学先の大学は県外を選んだ。気軽にこちらには戻って来られないように。そのまま向こうで就職して暮らすつもりだった。しかし、できなかった。
頑張ろうとはしたのだ。努力もした。それでも無理だった。一人でいることが辛かったから。
叶向は隣に座る彼女へ視線を向ける。彼女は思いつめたような表情のまま「叶向?」と首を傾げる。
「如月さ、変わってなかったんだ」
叶向の言葉に彼女は少し目を見開いた。しかしすぐ諦めたように「まあ、あの子は変わらなさそうだよね」と頷いて立ち上がった。そして背伸びをしてカウンターの向こうから煙草と灰皿を取ると再び腰を下ろす。
「たぶんあの子は変わらないよ。あんたと違ってさ」
叶向は頬杖をついて彼女を見つめた。煙草の煙が鼻先を掠めて消えていく。
「……わたしは変わった?」
彼女は叶向へ視線を向け、煙を吐き出す。
「少なくとも、高校時代のあんたと比べるとね」
「へえ、そうかな」
「そうでしょ」
だって、と彼女は煙草を灰皿の縁に掛けるとその手を叶向の頬に当てた。
「昔のあんたはそんな顔でわたしを見なかったよ」
無表情に彼女は言う。彼女は何も求めない。ただこうやって叶向のことを見てくれる。ありのままの姿を。手に入らないものを未だに求め続けている惨めな姿を。
叶向は頬に触れる彼女の手を取るとそのまま引き寄せる。抱きしめると折れてしまいそうな細い身体は心地良くて温かい。耳元でため息が聞こえた。
「今日はどうすんの?」
「泊まってく」
「あ、そ」
諦めたような声。しかし、叶向のことを拒絶したりはしない。
「あんた、本当にめんどくさいよね」
ーーなんかさ、水無月ってめんどくさいよね。
彼女の言葉に如月の声が重なる。忘れていたはずなのに、思い出してしまう。
叶向は彼女の背中に回した腕に力を込めた。
「……わたしはあの子じゃないよ」
ふわりと叶向の髪に彼女の指が触れた。少し掻き上げられた髪がパラパラと頬にかかるのを感じながら叶向は目を閉じて頷く。
「わかってるよ、そんなこと」
「煙草、吸いたいんだけど」
「もうちょっと」
――蘇った思い出をもう一度閉じ込めるまで、このまま。
ゆっくりと広がる苦い煙草の香りが叶向と彼女を包み込んでいく。この香りが、如月の笑顔から解放してくれる気がする。
「まったく……」
ポンポンと叶向の背中を叩きながら彼女は深くため息を吐いた。
「そんなんでやってけるの? 明日から」
「……大丈夫」
「どうだか」
「ダメだったら養ってもらう」
「は? 誰に」
「美守」
「やだよ、お断り。ぜったいに嫌。無理」
叶向は思わず吹き出してしまう。
「そこまで拒絶する?」
「わたしは一人がいいの」
「……だよね」
それでも彼女は優しく叶向の背中を叩いてくれる。励ますように、優しいながらも力強く。
「美守」
「なに」
「ありがとう」
「……いいよ」
ポンポンと温かな手が背中でリズムを刻む。静かな店内は聞き慣れたBGMと心を隠すような苦い煙草の香りに包まれていた。
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