終末のピロウ

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終末のピロウ

 母さんは死んだ。死んだのだ。  盛り土に石を乗せただけの粗末な墓を前に、齢十一歳を迎えたばかりの少年——アノ・カサヒクは、ようやく現実を受け入れた。  それを待っていたかのようなタイミングで、雨粒が墓標に落ちる。その一粒を皮切りに、雨は地面全体を、優しく濡らし始めた。  雨は嫌いじゃない。植物たちにとっては大切な物だし、町の汚れを洗い流しているみたいで、見ていて気持ちが良い。淡く白んだ風景の中、母さんと同じ傘に入って歩くのが、アノはたまらなく好きだった。  けれどもその母さんは、もういない。  だからと言って、雨が嫌いになったわけではない。今ではこうして、泣き顔を誤魔化してくれている。  まだ子供のアノにとって母親とは、社会という海原で遭難しないようにするための船のような存在だった。  それが突然、失くなった。  事故だからしょうがないと、大人たちは言ったけれど、そんな言葉を鵜呑みにはできなかった。  どこかの金持ちが乱暴に走らせた馬車にアノが轢かれそうだったのを、母さんが庇ったのだ。  馬車から降りてきた羽振の良さそうな膨よかな男は、倒れた母さんを見やると、舌打ちをして銀貨を三枚だけ放って、また馬車に戻ってどこかへ行ってしまった。  怒りなどなかった。だってその時にはまだ、母さんは生きていたから。  けれども結局、打ちどころが悪かったのか、母さんはそのまま死んでしまった。  それからはもう、あまり憶えていない。墓は、近所のみんなが少しずつ手伝ってくれて、ようやく小さな物ができた。それだけは、何となく憶えている。  ここは牧師のいない古びた教会の墓地。教会は戦争の時に半壊して、休戦から十年経ってなお、いまだに修繕もされずに残っている。  そんなだから、ここはお金のない人たち専用の墓地ような扱いになっている。泣いてばかりいたから気が付かなかったが、周りには母さんのと似たような墓が、無秩序に建っていた。  表の街の高台の方にできた新しい教会には、軍人や金持ちの墓があると聞いたが、アノにとっては関係のないことである。  ——これからどうしよう。  突然母親を亡くしてしまった今、アノは途方に暮れていた。これからどうしたら良いのか、判らない。家はあるが、お金がない。頼れる身寄りは、いるのだかいないのだかすらも判らない。父親は、アノが生まれてすぐに戦争に行って、それきり帰ってきていない。  そんな子供が一人で、こんな時世で普通に生きていくことなどできないことくらいは、アノでも解っていた。  アノのような身寄りをなくした子供を保護してくれる団体もあるらしいが、噂ではジンシンバイバイというのが行われているらしい。それがどういう意味かは解らないが、バイバイという響きが、何か怖い感じがする。  ——じゃあやっぱり……。  盗み。それしか思い付かない。  決して裕福ではなかったアノだったが、アノには親がいた。だから、そういったものとは無縁だと思っていた。路地裏の陰で銭を数えて賤しく笑うあの青年たちとは住む世界が違うのだと、どこかで線引きをしていたのだ。  雨が強さを増してきた。  気付けばアノの服は、余す所なく全身が濡れていて、重たくなっていた。  ——帰ろう。  まだ微かに日常が残るあの狭い家の空気を吸いたかった。  墓地を抜けると、一人の少女が傘も差さずに立っていた。アノよりも年齢(とし)は高いように見える。十五、六歳くらいだろうか。透き通るような白い頬に、濡れた銀色の髪が張り付いている。  一目見て、天使様だと思った。戦争の爪痕が残る教会を、憂いたような目で眺めるその様は、まさに地獄に舞い降りた神の使いのようである。 「あの……」  アノは堪らず近寄って、声を掛けた。誰でも良いから人と話したかった——というのもあるけれど、何よりこの不思議な雰囲気の漂う少女が気になったのだ。  灰緑色のローブの隙間から、この辺りの住人たちが見たら羨むような上等な衣服が覗いていているから、きっとどこか立派な家の娘なんだろうと思う。少なくとも、こんな焼け跡の残る廃墟とバラックだらけの裏街なんかの生まれではないことは確かだ。 「何を——してるんですか?」  使い慣れない敬語で、天使に問いかける。しかし彼女は、アノには視線をよこさずに、ただじっと教会堂を凝視していた。 「えっと……傘——は、持ってないんですか……?」  色々と尋ねてみたいことがあったのに、なぜかその中でも優先順位の低い質問が、口から出た。 「あなたも……」 「え?」  雨音でよく聞き取れなかったのを、もう一度聞き返した。 「あなたも持っていませんね」  天使のお姉さんはさっきよりも少し声を大きくして言った。 「……あ」  傘のことを言っているのだと、アノは遅れて理解した。 「僕は……良いんです」  何が良いのか、自分でもよく判らない。雨に濡れたい気分だったのか、それとも、傘を差す気分ではないと伝えたかったのか。あるいは他に理由があったのかもしれない。 「私も良いのです」  あなたとは別の理由ですがと、天使は静かに付け加えた。  それはどんな理由なのだろうと考えていると、天使がようやくこちらに視線を向けた。髪と同じ、銀色の虹彩をしている。 「危険なので、少し離れていて下さい」 「え?」  そしてまた視線を教会へと移して、二、三歩進み出た。アノもその方に視線をやって、天使が先程から見ている物を探した。  ふと風が吹いて、雨がベールのように揺らいだ。その時だった。 「助けてくれーッ!」  叫び声がした。教会の方からだ。  廃墟となった建物から、三人の男が飛び出てきた。多分、そこを住処にしていた浮浪者たちだろう。三人は何かに追われているように時々後ろを気にしながら、今にも転びそうな勢いで走っている。  アノはすぐに、近頃街を騒がせている通り魔のことを思い出した。そしてそれは、まるで騒ぎを予期していたかのように教会を気にしている、横の天使にも何か関係しているんじゃないかと直感した。 「何が——」  アノが尋ねる前に、天使は教会へと歩きだしていた。 「ねえ、どうしたの?」  危ないんじゃないの? 何か大変なことが起こっているのを感じて、アノは天使を引き止めようとしたが、彼女は止まらなかった。 「ちょっと——」  アノは天使に駆け寄り腕を掴もうとして、ぎょっとした。ダブついた袖の中から、鋭く大きな刃が出てきたのだ。一体何の素材でできているのか、その刃はぼんやりと発光している。さらにその刃には、柄がないのだ。手の先から、浮いているように見える。 「あの……それって……」  アノは天使の顔を見上げたが、やはりその目は教会の建物に定められていた。 「危険です。離れて下さい」 「誰か大人を呼んだ方が——」 「危険です。離れて下さい」 「でも——」 「危険です。離れて下さい」  銀の髪の少女は、まるで人の言葉を憶えた鳥のような、感情の読み取れない声で繰り返し言った。  仕方なく、アノは立ち止まる。  彼女はついに、男たちが出てから開けられたままになっていた扉をくぐっていった。  ——どうしよう。  アノは逡巡した。大人を呼ぼうか、それともあの少女を引き止めに行くか。  ——どうしよう、どうしようどうしよう。  もしあの中にいるのが、例の通り魔だったとしたら……。  ——だったら大人を呼んで助けてもらった方が……。  果たしてそれで間に合うだろうか。  ——でも僕が行っても何もできないし……。  アノの目が、街と教会を行き来する。焦る気持ちが、自然と足踏みになって表れる。  すると突然、ギィイン——という、鋭い衝突音が響いた。途端に、アノの思考が真っ白になった。 「行かなくちゃ……!」  アノは天使が入っていった教会へと走った。
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