終末のピロウ

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 入り口に辿り着いたところで、何度目かの衝突音が鳴った。アノは恐る恐る、扉の陰から顔を出して中の様子を窺う。  教会の天井が崩れ落ちているお蔭で、中は明るかった。  おそらく元々はきっちりと並べられていたであろう長椅子はほとんどが壊され、その残骸が壁際に寄せられている。本来なら正面に掲げられている信仰の象徴は、盗まれでもしたのか、見当たらない。  そこまで視線を滑らせると、自然とその下の、何か赤黒い物が水溜りに溶け込んでいるのが視界に入った。  ——あれって……!  赤く染まった床に落ちている黒い塊が人間の頭だと理解すると、喉の奥から酸っぱい物が込み上げてきた。顔を俯かせると、また、鋭い音が空気を震わせた。  何とか吐き気を堪えて視線を上げると、中で何が行われているのかが判った。  中央にいる、ローブを羽織った銀髪の少女が天使のお姉さん。  そしてその奥の暗がりにいる、ぼろぼろの黒い洋服を着た黒髪の少女が、通り魔の犯人で間違いないだろう。なぜならその少女の手や衣服には大量の血がついているし、右手には、 銀髪の少女のと似た、光る刃物がある。  距離をとって対峙していた二人は、水浸しの床を同時に蹴って、一気に間合いを詰めた。交わる刃から、激しい光の飛沫が散った。  何度か聞こえた独特な衝突音は、これだったのだ。二人は衝突と離脱を繰り返して、何度も刃をぶつけ合う。刃が交差し、膠着。すると、天使が血溜まりで足を滑らせて体勢を崩してしまった。すかさず刃を振り上げる黒髪の少女。 「危ない!」  堂内にアノの声が響く。それに反応したのか、黒の少女が刃をぴたりと止めた。その隙に、天使は体を捻って床に手をつき、何度か跳躍しながら距離をとった。  二人は動かず、互いの次の動きを窺っている。次の瞬間にでも激しい交戦が再開されるだろうと思われた。しかし、黒の少女は構えを崩し、顔だけをアノの方へ向けた。 「コード五二五……」  何かを呟くと、黒の少女は天使を無視してアノの方へと駆けだした。 「えっ?」  急接近する黒の少女。自分が狙われているのだと気付いた頃には、もう手が届く距離まで来ていた。逃げようと思うが、もう遅い。鈍く光る刃が、アノの胸を突き刺した。 「ぐ……!」  異物が体を突き抜ける感覚に痛みが重なる。刃が引き抜かれると、大量の血が噴き出した。 「コード五二五。完遂しまシ——」  黒の少女の胸から刃が突き出た。天使が背後から突き刺したのだろうということは理解できたが、それ以上の思考は、痛みによって掻き消された。耐えきれず、血溜まりに膝をつく。  痛いとも熱いとも違う。いや、その両方が混じった激しい痛み。 「カハッ」  咳き込むと口の中に鉄の味が広がった。肺を傷付けたのか、呼吸のたびにゴロゴロと嫌な音が鳴る。呼吸もままならない。視界の縁に影が生じ、徐々に狭くなっていく。  姿勢を維持するのでさえ辛くなり、ついにアノは地面に倒れ込んでしまった。その拍子に、首から提げていたペンダントが服の中からこぼれ落ち、顔の前で揺れた。  ——ああ……。  このまま自分は死んでしまうんだと、アノは赤黒く濡れた地面を見て自覚した。たった十年ばかりの人生だったけれど、充分幸せだと言える人生だったと思う。  ——母さんに、会えるかな。  もしそうなら、母さんはどう思うだろう。また会えたと喜んでくれるか、早すぎると悲しませてしまうか。多分、後者だと思う。  ぼやける視界の中で、近付いて来る天使の靴が見える。 「危険だと言ったはずです」  少女がそう言うが、アノは応えることができない。悶えることもできずにいると、アノの背中に何かが触れた。 「あと一分十六秒ほどで、あなたは絶命します。私の任務には——」  そこで言葉を止めた天使は、アノの鼻先に落ちているペンダントをなぜか摘み上げた。 「あなたも……んですね」  アノの意識はもうほとんど薄れていて、天使が何を言ったかのか聞き取れない。 「コード……を開……しま……」  途切れ途切れに言葉を聞いたのが最後。アノの意識は、完全に途絶えてしまった。  ※※※  瞼の向こうに光を感じて、アノは瞼を上げた。  まず視界に入ったのは、よく見慣れた古くて低い天井だった。隅にクモが巣を張っているのも、知っている通りだ。  慣れた寝心地のベッド。隣接する民家との間を抜けて辛うじて窓から入る日光。居心地の良い部屋の匂い。起き上がらずとも、ここは自分の寝室だとすぐに理解した。  おかしな夢を見た。どこから夢だったのだろう。微かな記憶では、母さんは死んでしまっていて、天使のような少女と出会って、その人と怖い人とが戦った。  そんな、荒唐無稽で恐ろしい記憶。  ——そうか。  全部夢だったのだ。  寝室の外から、床が軋む音がした気がした。きっと母さんだろう。母さんは生きてるんだ。  アノはベッドから降り、部屋のドアを開けた。 「母さ——」  しかしそこにあったのは、母の姿ではなく、夢で見たあの、銀の髪の少女だった。人形のように、直立した姿勢で佇んでいる。  母さんではない。そうと解った途端に、アノは落胆した。  夢ではなかったのだ。母さんの死は、やはり現実だったのだ。 「どうかしましたか」  扉を開けるなり俯くアノを訝しんだ少女が、抑揚のない声で尋ねる。 「あまり動かないようにして下さい。傷が開きます」 「傷……?」  そう言われてみれば、胸の辺りに圧迫感がある。視線を下ろすと、縦一文字に裂かれた服が、塗料をこぼしたように赤褐色に汚れていた。それをそっと捲し上げてみる。体には綺麗な包帯が幾重にも巻かれていた。  それを見て、痛みとともに全てを思い出した。 「これって……」  そうだ。あの時、教会で黒い少女に刺されたのだ。 「僕……何で……」  子供でも解る。刺された場所。あの血の量。普通ならばとっくに死んでいるはずである。医者を呼んだとしても、間に合わないだろう。  答えを求める視線を少女にやるが、その意図に気付かないのか、少女は何も応えなかった。  だから今度は、言語化して尋ねる。 「これ、天使様——っお姉さんがやったんですか?」 「これとは、手当てのことでしょうか」 「うん」 「それなら、確かに私がやりました。何か不備でもございますか」 「いや……ないです……けど」 「そうですか」  そう言って少女は、何やら外を気にするように窓を見た。確かそこには隣の家の壁があるだけのはずだ。アノも同じ方を見るが、やはり煤けた煉瓦の壁があるだけだった。  どこかから鳥のさえずりが聞こえる。そこでようやく、もう雨が降っていないということに気が付いた。 「あの、僕……どれくらい寝てたんですか?」 「七十三時間と二十分八秒です」  少女は即答して、アノに視線を戻した。 「それって……えっと、えっと……三日……くらい?」  アノは指を折りながらやっとのことで計算の答えを出すと、少女は静かな声で、はいと応えた。 「概ねそれで合っています」 「その間ずっと、看病してくれたってこと……ですか?」 「はい」 「ありがとう……ございます。……でも」  途端に、アノは怪しんだ。 「お医者さん……ですか?」  しかしその答えは、いいえの一言だけだった。  普通、道端で見かけただけの子供——それも明らかに裕福ではない子供に、ここまでのことをするだろうか。  それが、医者だったなら助けるかもしれないが、彼女はそうでないと言う。上等な服を着た少女が、低級層の子供なんか助けるはずがないのだ。 「というか、どうしてこの家の場所が判ったんですか?」 「手術を終えた後、一時的に意識を取り戻した際に、教えて下さいました」 「そう……なんだ」  憶えていない。 「何で、そこまでしてくれるんですか? 僕た——っ僕には、何もないですよ」 「そのようですね」  少女は狭い室内を一瞥して言った。この家には、家具などの、生活に必要な道具以外には、ほとんど物がない。 「私は……」 「え?」 「私は、尋ねてみたかったのでしょう」 「尋ねる?」  どこか他人事のような言い回しに、アノは首をひねる。すると少女は、ローブのポケットから、光沢のある物を取り出した。
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