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「畠山、来なさい」
十一月のとある水曜日。印刷会社の総務課に勤務する畠山さつきは、部長の田浦に呼び出された。時は既に夕刻、勤務時間は過ぎていた。
さつきは部長の後を追い、他に誰もいない給湯室へと入った。
ひんやりとした空気が不安を増幅させ、脇からは冷や汗が伝ってくる。部長は蛍光灯をつけると、改めて身体をこちらに向けた。
「なぜ呼ばれたか分かるか」
眉間に皺を寄せた部長が、抑揚のない声で淡々と言う。
「いえ」
さつきは俯き、ポツリと返した。返答とは裏腹に心当たりはいくつもある。内心冷や汗が止まらなかった。
部長はため息をついて、一枚のクリアファイルをさつきの目の前に差し出した。中には、A4サイズの紙の束が入っており、大量の付箋がつけられている。それは自分が作成した出張費の支出伺いだった。背中に冷水を垂らされたような感覚が襲い、思わず身震いした。
「えっと……」
部長は給湯室から雨の降りしきる外を眺めながら、大きなため息をついた。
「これ、支出費目の誤り。こっちは金額が違う。これは日付。これは……」
顔が暑くなり、部長の声が聞こえなくなる。頭のキャパシティが限界を迎えたのである。昔からこうだった。
小中高の授業もだし、親から叱られている時も。一枚一枚書類をめくりながら何かを呪文のように唱える部長を、客観的に見ているだけで精一杯だ。相手の視線から極力外れて、ひたすら頭を下げ続ける。
「申し訳ございません、勉強不足で……」
部長に視線を向けられている頭頂部が、徐々に熱を帯びてくる。
「教育係から、流石に困ると苦情が入った」
「あ、あの……面談の時にもご相談しましたが、発達障害を持ち合わせておりまして……」
部長は大きなため息を一つつく。部長の呼気に含まれるコーヒーの匂いが流れてきて、さつきを現実に引き戻した。
「決算に向けて繁忙期に差し掛かると、手を掛けていられなくなる。それまでに、考えておきなさい」
「大変、申し訳ございませんでした」
「戻りなさい」
さつきは、真っ白になった頭を深々と下げた。重い頭をあげると、部長と目があった。侮蔑を含んでいるかのような冷ややかな視線は、文字通りさつきに突き刺さった。
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