後編

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後編

   俺は畳の間に通された。店の内装は変わっていたが、この部屋や卓袱台は変わっていない。 「今日のお茶はねー、レモンフレーバー。甘酸っぱい紅茶だよ」  そう説明して、お姉さんは俺と自分の前に冷たい茶の入ったグラスを置いた。 「いただきます」 「どうぞー」  彼女は笑って、俺の正面に腰かける。 「久しぶりだね。片岡夏樹(かたおかなつき)くん」 「……え。なんで、俺の名前を」 「ここは田舎だからね。毎年帰省してた子の名前は、噂で知るようになっちゃうの。私の名前は知ってた?」 「ううん」  祖母の台詞を聞いてから、俺はこのひそやかな時間を誰にも言わないようになった。ひっきょう、彼女の名も知ることはなかった。  そして、どうしてか彼女に「お名前、なんていうんですか」と聞けなかった。幼い日の俺は彼女の前にいると緊張して、なんだか恥ずかしくて、ろくに口を利けなくなっていたのだ。 「木元(きもと)あざみ」  彼女は、なんでもないことのように名乗った。  あざみ。心のなかで、繰り返してみる。 「夏樹くん、久しぶりだよね。ここには帰ってきてたの? それとも、ここに来てなかっただけ?」 「じいちゃんが死んで……俺も中学にあがって部活で忙しくなったし、帰省しなくなったんです。今回は、ばあちゃんが施設に入る手続きしにいくって両親が言ったんで、連れてきてもらったんです。部活はもう、引退したし」 「へえ。部活って、何部だったの?」 「……テニス部です」  最後の大会は、一回戦負けという有様だった。同輩と後輩の同情の視線を思い出すと、苦い気持ちが湧いてくる。 「そっかー」 「あざみさんは……その、俺のばあちゃんが言ってたんですけど……」  言いかけて、俺は失態に気づく。  だが、彼女は気にした様子もなく顔を近づけてきた。 「出戻り娘って?」 「……はい」 「そんな、小さくならないで。別に気にしなくていいよ。本当のことだしね。私、すごく若い頃に結婚したの。高校卒業して、すぐだった。あのときは燃え上がってて、夫を運命のひとだと思って……幸せ、だったの」  あざみさんは、冷たい紅茶を一口すすってから、続けた。 「でも、いつしか気持ちがすれ違って。気がついたら、夫に浮気された」 「えっ。そんなこと、俺なんかに言ってもいいんですか」 「いいの。どうせ、この町のひとはみんな知ってるしね。夏樹くんのおばあさんも、知ってると思うよ」  あざみさんは、紅茶のグラスを揺らしてからりと氷の音を立てた。 「それで、ここに戻ってきたんだ。外に働きに出る元気もなくて、しばらくはこの店を手伝ってた。ここは、私の祖父母の店だったの。もう閉めるっていうから、三年前に私が継いだの」 「そうなんですか。そういえば、外装も内装も変わってましたね」 「ふふ。うん。今は、お茶を売るだけじゃなくて、なかでお茶や簡単な食べ物を提供できる、一種のカフェみたいになってるんだよ」  そういえば、と店内を歩いたときに、テーブル席が三つほどあったことを思い出す。 「雑誌に載ったおかげで、お客さんも結構来てくれるようになったの。地元のひとも、気軽に利用してくれるし。今は親戚の女の子に、お店手伝ってもらってる。でも今日は、私だけ。……夕立、止まないね」  あざみさんの言葉で、俺は耳を澄ませる。雨音は、まだ止んでいなかった。 「……もうお店、閉めちゃおうかな」  そう呟いて、あざみさんは立ち上がり、軽やかに走っていった。  戻ってきたあざみさんは、お茶の袋を手にしていた。 「さっきのお茶、気に入ったら是非もらって。レモンフレーバーの紅茶」  それを受け取り、俺はうろたえた。 「もらう、なんて。俺、金払います」 「いいの、いいの。再会記念、ってことで」  あざみさんは元の位置に戻って座り、お茶の残りを飲み干していた。  俺の分は、とっくになくなっており、氷が底のほうで薄まった茶に溶けているところだった。 「お代わり、いる?」 「いえ……。もう、止んだみたいですし」  雨音が、いつの間にやら絶えていた。 「あ、本当だ。夕立って、降るのも止むのも突然だよね」  あざみさんの笑顔にどきっとして、俺はつい「あざみさん、俺と――」と言いかけてしまった。 「ん? 君と、何?」 「…………なんでも、ないです」  何を言うつもりだったのだろう。真夏の暑さで、おかしくなっていたのだろうか。 「俺、帰ります」 「うん。見送るよ」  あざみさんは、店の外まで見送りに出てくれた。 「またねー!」  明るい笑顔で手を振るあざみさんは、あざみというよりもひまわりに見えた。   「ただいま」 「おかえり、夏樹」  俺が家のなかにあがるなり、母さんが走ってくる。 「遅かったじゃない。ちょっと散歩する、って言って何時間かかってるのよ。あんたも、戦力に数えてるんだからね」  ばあちゃんが施設に入居したら、この家は空き家になるので、売りに出すらしい。そのための大掃除の真っ最中だった。  そんななか、抜けてしまったのはたしかに悪いことをしたと思う。 「ごめん」  謝ると、母さんは「今日は、どこかに食べにいきましょ。ファミレスでいい?」と問いかけてきた。  一応聞いているが、決定事項なのだろう。 「いいよ、なんでも」  と言って、俺は手に持った紅茶の袋を意識した。  案の定、母さんがそれに目を留める。 「あんた、お茶買ってきたの?」 「……うん」  もらった、と言えばいきさつを話さなければいけなくなりそうで、俺は嘘をついた。 「あそこの、お茶屋さんね。いつからか、カフェみたいなこともやってて、評判みたいね。あそこの店長さんも、まだ若かったでしょ」  ここは父さんの故郷なのに、やけに母さんは詳しかった。雑誌で、あの茶屋のことを見たのだろうか。 「うん、若かった」  それに、優しくてきれいだった……とは言わずに、俺は母さんの横をすり抜けた。  翌日、掃除をある程度済ませたあと、車に乗って帰路についた。  運転席の父と、助手席の母が交わす会話を聞くともなしに聞きながら、俺は後部座席の窓から遠ざかる風景を眺める。  幼い頃は、果てしないほど遠いと思っていたが、ここから俺の家までは車で一時間ほど。電車なら、もう少しかかって一時間半ぐらい。  ひとりで、行けない距離じゃない。  しばらくは受験勉強に打ち込むつもりだから、ここをまた訪れるとしたら来年になるだろうか。  今度は夕立を待たずに、店に入ってみよう。そして、お茶を買おう。カフェスペースで、飲んでもいい。  きっと、彼女は歓迎してくれるだろう。  あのひととの距離が、少しでも近づいたらいい。  淡い想いを胸に抱いて、ひっそりと微笑んだ。  帰ったら、紅茶を淹れてみよう。あのひとの前で飲んだときほど、甘酸っぱく感じないかもしれないけれど。  そんなことを考えながら、視線を空にやる。  青空が眩しく、雲すら浮かんでいない。雨はまだ遠いようだった。   (了)
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