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5
覚えてる。
クラス替えが終わって、新しい教室にも慣れたころ。
雨上がりの午後だった。
降り続いた春雨の終わりに、中庭はすっかり、葉桜の景色。
購買に続く渡り廊下は、行き交う生徒の靴底で、泥と花びらに汚れていた。
誰が、ジュースを奢るとか──彼らはきっと、そんな話をしていた。
楽し気な男の子たちとのすれ違いざま、わたしの足元に、黒い小物が飛びこんだ。
「あー、ごめん!」
誰かが声をあげた。
拾うのは、わたしが早かった。
うっかり、踏まなくてよかった。
けれど。
小さな黒いコインケースには、湿った泥。
……少し、忍びない。
手持ちのハンカチでぬぐってから、彼らへ差し出す。
さっと歩み出て、受け取ったひと。
背の高いひと。
顔も名前も、わからなかった。
「お礼とお詫び」
クラスメイトと知ったのは、そんな言葉とともに、平たい包みを渡された翌日。
朝の教室はまだ、ひともまばら。
昨日はありがとう。
──その声が。
まるで素敵な魔法の言葉みたいに。
こころのどこかに触れて──わたしは、ふと顔をあげた。
あ、と思って、見上げた。
背の高いひと。
昨日の……。
おや、と彼が目じりを下げた。
「ああ、やっとこっちを見た」
「あ……」
なんだか、困る。
そわそわする。こんな。
こんなひと、だったかしら。
そういえばわたし昨日、相手の顔を、よく見てたかしら。
差し出されるままに……。
受け取ってしまった、シックなラッピング。
それの中身は、なんとなくわかる。
やっぱり彼が、昨日のあのひと。
「こんなこと。…してもらわなくても」
「いいから」
「でも」
「貰って。嬉しかったから」
彼の言葉がわたしに触れる。
「──…あの」
「うん」
くすぐったくて、わたしは探す。
「…じゃあ、あの。…ありがとう、ございます」
それは胸のどこか。
ふわふわと揺れる、不思議ななにか。
「変だな」
「え」
「俺がお礼言ってるんだけどな」
そうして彼は、やんわりと、目配せ。
──…覚えて、いる。
「昨日はありがとう、香月」
今と変わらない、あの笑顔。
くすぐったくって、きゅってなる。
ふわ、ふわ、揺れる。
それはなに?
「どう…いたし、まして」
これはなに?
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