8人が本棚に入れています
本棚に追加
ダンテは手帳をポケットに仕舞うと、缶詰で隠すように棚に置いてあったリングケースを手に取った。
ふとキャンバスの中の女性と目が合った。
「絵よりも、実物の方がもっと綺麗だった」
賛辞に喜ぶ声は、もう聞こえない。
寂寥感に苛まれながら、ダンテは雲の隙間から覗く青空を見上げた。
思えば、快晴がよく似合う美しい女性であった。
「いまでも気の利いた台詞なんて浮かばないな……知ってるって?」
リングケースからダイヤモンドがあしらわれた婚約指輪を取り出して、その真新しい輝きをそっと撫でる。
「先生なんて呼ばれていても、一番大切なお前を助けてやれなかった」
大災害が起きて世界が終わった日、ダンテの目の前で恋人は波にさらわれてしまった。
せめてあの時、共に沈んでいればと考えずにはいられない。
その度に、記憶の中の恋人は「そんなことを言わないで」と悲しい顔をする。
「だらだら生き延びてきたが、きょうが最後だ。ようやくお前のもとへ行ける」
ダンテはしばらく黙考して、諦めたように頭を振った。
何度思考しても、彼女が喜びそうなロマンチックな台詞が浮かばない。
ダンテは婚約指輪を握った右手を、窓の外に伸ばした。
「海よ、我は汝と結婚せり」
美しい海のどこかで眠る恋人に届くようにと願って、誓いの言葉を呟いた。
そっと指を開くと、婚約指輪は青い水の中に吸い込まれていった。
次第に強い風が吹いてきて、空を鉛色の分厚い雲が覆い始めた。
ダンテは汚れた筆をパレットに置いて、色とりどりの花に囲まれて微笑む恋人と向かい合った。
「我ながら良い出来じゃないか」
きょうばかりは自画自賛も許してほしい。
ダンテは絵の具で汚れた手で手帳を取り出し、「絵を完成させる」という最後の日課に横線を入れた。
何もかもやり終えた達成感と虚無感に襲われる。
ダンテには文字通り何も残されてはいない。
見計らったかのように雷が鳴って、雨脚が強くなってきた。
ダンテはガラス窓を閉めて、内側に取りつけていた木の窓扉を閉めた。
異形の生物の餌になって死ぬのは御免だ。
一階へ続く階段は木の板で封鎖しているが、そこからじわじわと水が溢れ出している。
ダンテは白衣を脱ぎかけて、結局はその格好のまま、仕上がったばかりの絵を脇に抱えてベッドに転がった。
「お前は苦しかったか?」
ダンテは絵の中の恋人の頬に触れて、そっと問いかける。
叩きつけられる豪雨と強風で家が揺れた。
「もうすぐ会える」
ダンテは安堵したように目蓋を閉じた。
しかし、最期の安らぎを奪うように轟音が響き渡り、ダンテは思わず飛び起きた。
言葉を発する間もなく、ダンテの視界には壁を突き破る巨大な流木と、そこから流れ込む海水で埋め尽くされてしまった。
洗濯機に放り込まれた衣類とはこんな気分か、と薄れる意識の中で場違いな感想を抱いていた。
最初のコメントを投稿しよう!