沈む街

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 ダンテは手帳をポケットに仕舞うと、缶詰で隠すように棚に置いてあったリングケースを手に取った。  ふとキャンバスの中の女性と目が合った。 「絵よりも、実物の方がもっと綺麗だった」  賛辞に喜ぶ声は、もう聞こえない。  寂寥感に苛まれながら、ダンテは雲の隙間から覗く青空を見上げた。  思えば、快晴がよく似合う美しい女性であった。 「いまでも気の利いた台詞なんて浮かばないな……知ってるって?」  リングケースからダイヤモンドがあしらわれた婚約指輪を取り出して、その真新しい輝きをそっと撫でる。 「先生なんて呼ばれていても、一番大切なお前を助けてやれなかった」  大災害が起きて世界が終わった日、ダンテの目の前で恋人は波にさらわれてしまった。  せめてあの時、共に沈んでいればと考えずにはいられない。  その度に、記憶の中の恋人は「そんなことを言わないで」と悲しい顔をする。 「だらだら生き延びてきたが、きょうが最後だ。ようやくお前のもとへ行ける」  ダンテはしばらく黙考して、諦めたように頭を振った。  何度思考しても、彼女が喜びそうなロマンチックな台詞が浮かばない。  ダンテは婚約指輪を握った右手を、窓の外に伸ばした。 「海よ、我は汝と結婚せり」  美しい海のどこかで眠る恋人に届くようにと願って、誓いの言葉を呟いた。  そっと指を開くと、婚約指輪は青い水の中に吸い込まれていった。  次第に強い風が吹いてきて、空を鉛色の分厚い雲が覆い始めた。  ダンテは汚れた筆をパレットに置いて、色とりどりの花に囲まれて微笑む恋人と向かい合った。 「我ながら良い出来じゃないか」  きょうばかりは自画自賛も許してほしい。  ダンテは絵の具で汚れた手で手帳を取り出し、「絵を完成させる」という最後の日課に横線を入れた。  何もかもやり終えた達成感と虚無感に襲われる。  ダンテには文字通り何も残されてはいない。  見計らったかのように雷が鳴って、雨脚が強くなってきた。  ダンテはガラス窓を閉めて、内側に取りつけていた木の窓扉を閉めた。  異形の生物の餌になって死ぬのは御免だ。  一階へ続く階段は木の板で封鎖しているが、そこからじわじわと水が溢れ出している。  ダンテは白衣を脱ぎかけて、結局はその格好のまま、仕上がったばかりの絵を脇に抱えてベッドに転がった。 「お前は苦しかったか?」  ダンテは絵の中の恋人の頬に触れて、そっと問いかける。  叩きつけられる豪雨と強風で家が揺れた。 「もうすぐ会える」  ダンテは安堵したように目蓋を閉じた。  しかし、最期の安らぎを奪うように轟音が響き渡り、ダンテは思わず飛び起きた。  言葉を発する間もなく、ダンテの視界には壁を突き破る巨大な流木と、そこから流れ込む海水で埋め尽くされてしまった。  洗濯機に放り込まれた衣類とはこんな気分か、と薄れる意識の中で場違いな感想を抱いていた。
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