沈む街

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 窓の外には、水に浸かった街がある。  時期外れのアクア・アルタ(高潮)ならば気が楽だったが、浸水の規模を見ればアクア・アルタなど比較にならないほど深刻である。  波が壁を打つ長閑な音を聞きながら、ダンテは円柱型の缶詰の蓋を開いて、中からしっとりと砂糖に塗れたパンを取り出して噛りついた。  ダンテがいるのは住居の二階であり、一階は完全に水に沈んでいる。  一年前の大災害により、人類はほぼ滅亡した。  さらに海面が上昇したことで、残された人類は住む場所を失いつつある。  街中であっても水が澄み切っていて美しいのは、水を汚す人間の数が減ったからなのかもしれない。  ダンテは缶詰を窓辺に放置したまま、姿見の前に立った。 寝癖のついた黒髪を手櫛で整えて、まばらに生えた無精髭を撫でる。  体格だけは良い冴えない男がそこに立っていた。  ダンテは椅子にかけていた白衣に袖を通すと、横掛けの鞄を手に取って、窓の手すりに縄で括りつけていたゴンドラ(小舟)に乗った。  危うく転覆しそうになって、ダンテは無様に尻餅をついた。 「いつまでも慣れねぇな」  ダンテは恐る恐ると反り上がった船尾に立って、一本のオールでぎこちなく漕ぎ出した。  何度か壁に船体を擦りながらも、目的の家の前に到着した。  手すりにゴンドラを繋ぎとめて、慣れた様子で開いた窓から部屋に侵入する。 「おはよう、婆さん。体調はどうだ」  薄汚れた絨毯の上に降り立ったダンテは、すぐ近くの安楽椅子に腰掛けて揺れている老婆を認めて眉根を寄せた。 「おい、婆さん。きょうは随分静かじゃねぇか。窓から入るなって説教はしねぇのか」  老婆は膝の上に両手を重ねて、深く項垂れたまま答えない。  ダンテは老婆の近くに片膝をついて、下から顔を覗き込んだ。  青白いが、穏やかな寝顔だった。 「そうか」  ダンテは深々とため息をついて、老婆の手元から零れ落ちたらしい写真を拾い上げた。  赤ん坊を抱いた、若い夫婦の色褪せた写真だ。 「旦那と息子には会えたかい?」  ダンテはその写真を冷たくなった両手の下に滑り込ませてから、ゆっくりと立ち上がった。  そして、白衣のポケットからくたびれた黒い手帳とペンを取り出して、メモのページの二行目に書かれた「アレッサンドラ」という名前を横線で消した。  ダンテは手帳をポケットに仕舞うと、テーブルの上に置いてある缶詰を見下ろした。  口うるさく怒りっぽい女性であったが、診察代として必ず貴重な缶詰を用意してくれる誠実な女性だった。  死期を悟っていたのか、この家にあるすべての缶詰が置いてあった。 「ありがたく頂くぞ」  ダンテは鞄に缶詰を入れてから、窓の外に繋ぎとめていたゴンドラに飛び乗った。 「じゃあな」  まるで、棺桶の蓋を閉じるように窓を閉じてから、オールを手に取った。  自宅に戻ってきたダンテは、重みを増した鞄をベッドに放り投げて、部屋の隅に立てかけていた木の棒と変わりない釣竿を手に取った。  釣り針に今朝食べたパンの残りを刺して、窓の外に向かって投げる。   「頼むから釣れてくれよ。缶詰生活も飽きてくるからな」  ぼやきながら、テーブルに転がっていたよれよれのタバコを銜えて、ライターで火を点ける。  釣竿がしなったので、身を乗り出しながら釣竿を引くと、目をぎょろぎょろと蠢かせる紫色の魚が水面から顔を出した。  魚は鋭い歯で針を噛み砕き、糸を食べながら登ってこようとする。  ダンテが慌てて釣竿を手放すと、釣竿は異形の魚と共に水底に沈んで行った。
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