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高架下を抜け、先輩に連れてこられたのは「HEP FIVE」の建物だった。大阪をよく知らない人の為に説明すると、大きな赤い観覧車がある商業施設だ。赤い親子クジラの大きなオブジェも有名だ。そして、お洒落なカフェなんかもあったような気がする。だが、D先輩は何かを思い付いたようで唐突に声を上げる。
「そうだ。折角だし、一緒に観覧車に乗らない?」
「良いですけど……」
私はA子に見せてもらった天気予報の内容を思い出す。ふと、空を見上げると灰色の雲が青空を覆い隠している。薄暗く、とてもじゃないが良い景色は期待できない。
「先輩、こんな天気ですし……。観覧車はまたの機会にしませんか? もっと、晴れた日にしましょうよ。連絡先を交換して、改めて……」
「ううん。それじゃ駄目なの……。どうしても、今日じゃなきゃ……」
先輩は「どうしても今日、観覧車に乗らなければ」と言って聞かない。仕方ない。この場は先輩に合わせるべきだと私は思った。
「分かりました。行きましょう」
と私が言うと、先輩は心底嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
そして、私と先輩は建物の中に入って行った。
乗り場はビルの七階にあった。観覧車の料金は一人600円だった。私と先輩は割り勘でチケットを二枚買った。私が先にチケットを一枚取り、係員のお姉さんに渡す。係員さんに促されるままに真っ赤な車体のゴンドラに乗り込むと、遅れて先輩もやって来た。私達は同じゴンドラに乗り込み、扉が閉められる。ゆっくりとゴンドラが動き、景色が段々と高くなるのを感じた。
「付き合わせちゃって、ごめんね」
先輩が私に頭を下げる。
「いえいえ、先輩に久しぶりに会えて嬉しいですし。多少の我が儘なら聞きますよ」
私が言うと、先輩は安堵の表情を浮かべた。しばらくの沈黙が続く。よく晴れた日であれば、明石海峡大橋や生駒山も見えると有名の観覧車だが、やはり天気が悪いので近場しか見えない。段々と高度が上がり、下に見えていた人や車が蟻のように小さくなる。
数分が経過し、そろそろ私達の乗っているゴンドラが円の頂点に達しようとしていた時だった。
「ありがとうね」
先輩がポツリと呟いた。
「あの時、追い詰められていた私を最後まで心配してくれたのは貴方だけだったね。顧問の先生に住所を聞いて、家にまで来てくれて……。私は顔を出せなかったけど、嬉しかったよ」
先輩の台詞で思い出した。私は学校に来なくなった先輩が心配で顧問の先生を問い質したのだ。先生は「そんなに心配なら、お前が行って来てくれ」と言い、私はその言葉通りに先輩が欠席していた時のプリントや先輩が学校に置き忘れた荷物を持って、先輩の家に向かった。先輩は出てこずに、先輩のお母さんだけが家から出てきて、荷物を預かってくれた。恐らく、その時の話だろう。
そういえば、あの時からだ。D先輩のような人を放っておけなくなったのは。学校に来なくなったのはC男もB子も同じだ。そんな人達が何となくD先輩の姿と重なったのだ。
C男の家にも毎日、欠席中のプリントや荷物を届けた。偶にC男の母の勧めで家に上がらせてもらって、C男の部屋の前で声を掛けたことがある。「無理しないでね」と、「でも、また顔を見せてくれたら嬉しいな」と。あの声は果たして彼に届いたのだろうか。
B子にも頻繁にLINEでメッセージを送った。「悩みがあれば何でも聞くよ」というメッセージだ。講義の出席カードもB子の分まで書いたし、レジュメの写真も送った。また、彼女と一緒に三人で大学に通える日を待ち望んでいた。
ふと、視線を感じ、前のゴンドラを見る。思わず声が出そうになる程、驚かされた。B子が乗っていた。寂しそうな笑みを浮かべ、こちらに向かって手を振っていた。背後からも視線を感じる。振り向くと、後ろのゴンドラにはC男が乗っていた。彼は私を見て、少し口元を緩めた。憂いを帯びた表情。その表情を見ていると、何故か、私の目から涙が零れ出た。
「さて、そろそろお別れだね。最期に貴方に会う事が出来て、本当に良かった」
D先輩は座席から立ち上がり、ゴンドラの扉の前に立った。何をするつもりなのだろう? まだ、ゴンドラは高所に留まっている。外に出られる筈が無い。だが、予感はした。もう二度とD先輩に……。大切な人と会えなくなるのではないかという予感。その悲しさと虚しさ、恐怖が私の心の内から湧き上がった。
「待って! 先輩、行かないで!」
私は叫んだ。しかし、先輩は昔、私を指導してくれた時のような優しい微笑を私に向けた。そして、先輩は扉から外に出た。扉は施錠されていた。でも、関係ない。先輩の体は靄のように薄くなり、扉を通り抜けた。そして、彼女は落ちることなく、その空間に静止した。まるで、雲のように浮かんでいた。C男とB子もD先輩の近くに寄っていく。水の中を泳ぐ金魚の様に、自由に空中を浮遊している。
ポツ ポツ ポツ
ゴンドラの窓ガラスに水滴が当たる。ガラスにぶつかる水滴の数は段々と多くなっていく。
私は窓ガラスを何度も強く叩く。
「待って! D先輩! C男! B子! 待ってよ! 私を置いて、何処かへ行かないでよ!」
久しぶりに思い出した彼等。そして、その存在を私は忘れていた。彼等が姿を見せてくれるまで、彼等の姿は脳裏に過ぎりもしなかった。こんな私にこんな台詞を言う資格は無いのかもしれない。でも、私は彼等が何処かへ行ってしまうことに耐えられなかった。胸が張り裂けそうな悲しみを感じた。
三人が私に向けるのは微笑みだけだった。決して、私の手を取って一緒に連れて行くことも、私のいる場所に戻ってくることもしなかった。
雲は白に近い灰色から、黒に近い灰色へと変わっていた。上空から降り注ぐ雨の水滴が容赦なく地面を穿ち続けていた。数多の黒い線が何度も地上へ向かって降りて行った。
突如、視界に映る景色が光った。雷だ。光ったのは、ほんの一瞬だった。だが、その一瞬を私の目は捉えた。白い光の枝分かれした道筋。浮遊している彼等は、その道を辿り、天に向かって登って行った。あまりにも一瞬の出来事に私は呆然とするしかなかった。
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