#16 光と影

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#16 光と影

 Aさんは、就職してから少し離れたところに住むようになった。仕事帰りの金曜日の夜にデート、みたいなことに憧れていたのに、入社式の日に一度だけカフェでお茶をしたのが、唯一の仕事帰りのデート、といった有り様であった。それでも、もともとそういうデートに縁がなかったし、私の仕事よりはAさんの仕事が格段に忙しかったので、職場が近かったとしても無理だっただろうから、ただ一度でもそういう思い出があることだけでも喜ぶことなのかもしれない。  当時、携帯電話はとても高価なものだったので、お互いに持っておらず、距離の離れてしまった私たちの連絡手段は専ら固定電話だった。といっても電話代が高くなれば長く話していることがバレてしまうから、ホントに数分で切るぐらいの電話だった。  結婚が近くなるにつれて、母はまた様々なことでごね始めた。Aさんの両親が気に入らないだの、嫌いだの、しまいには結婚式には行かないとまで言い出す始末だったのだ。ごねた原因は、結納金を渡さなかったからだろう。渡したらどうなるか分かっていた私は、何を言われようと、絶対に渡さなかったのだ。せいぜい、嫌い程度なら聞き流せたが、結婚式には行かないまで言われたら、こなくていい、レンタルするから、と言い返してしまった。その頃、レンタル友達などの人材のレンタルが出だした頃で、こんなに面倒な母親が来るぐらいなら、借りた方がましだと本気で考えていたのだ。  更に、嫌なことは立て続けに起こるもので、母の行きつけの店の女性オーナーが夜中に我が家の前で騒ぎ出したことがあって、近所迷惑だから、というと、彼女が突然つかみかかってきて、私のお気に入りのパジャマのボタンを引きちぎられた上に、私が彼女の夫に色目を使ったという言いがかりをつけられたのだ。  その事自体許せなかったが、婚約中の娘が言いがかりをつけられているのに、母は、彼女を止めるどころか、私の隣で片方の唇を斜めに引き上げて私をニヤニヤ笑ってみていたのだ。その上、彼女が帰った後には、私が近所迷惑とか言ったのが悪いという始末だった。  更には、あんなこと言う人と関わらないでと言ったにも関わらず、次の日にはまたその店へ飲みに行っていた。母は、私の中にわずかにあった気持ちの欠片を全力で打ち砕いてきたのだ。  もういい。私には母なんていない。私の母は、あの日遠くへ越していった、近所のおばさんだったんだ。分かっていたことだったのに、私はこのときにもまだ期待していたのだ。母が母であることを。  家でのゴタゴタをよそに、Aさんとの結婚話はトントン拍子に進み、「大変な出来事」の翌年、その冬一番の寒波が来た日に、Aさんと私は結婚した。  新婚旅行から帰ってきた日に、寒いのに暖房器具もなくて、その日は部屋の中でもコートを着て過ごしたのだが、それも今となってはいい思い出だ。  夫となったAさんは、結婚前より更に優しくなった。大抵つっかかっていくのは私で、それを上手く受け流してくれたり、ことによっては真剣に向き合ってくれた。その頃の私は、Aさんと家族になれた喜びで満ち溢れていたのだった。まだまだこの先に山あり谷ありの人生が待っているとも知らずに。
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