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#20 両親の受難
時期としては、私がハラスメントの精神的なダメージから回復するかしないか、というあたりまでさかのぼるが、その頃、母が脳梗塞で倒れて入院した。さすがにその知らせに反応しないわけにはいかなかったが、当時専業主婦であった姉が付いてくれることになり、ひとまずのところを任せて、週末に家族で駆け付けた。
詳細について説明されたところをかいつまむと、母は言語野と右半身に障がいがのこり、失語症と片麻痺の状態であるとのことだった。ほぼすべてが「こ」か「ん」という会話をどうにかして理解しなければならないという無理難題が私たち姉妹に課されてしまった。
姉は、近くに住んでいたということと、自分が長女だから、と、大変なところを一手に抱え込んでしまい、私は時々見舞いに行くぐらいで済んでいた。
急性期はまだよかったが、リハビリの病院に移ったころ、私の地獄が始まった。週に一度、夫の協力を得て、仕事帰りに母の病院に寄って、夕飯を共にして帰ってくるようにしていたのだが、ここでも母のわがままがさく裂していたのだった。仕事を終えて、母の食事の介助をして自宅に帰ると二一時をすぎてしまうので、やむを得ず私も近所のコンビニでパンを買って持っていくと、母はそれを勝手に食べてしまい、見つかって看護師さんに叱られてしまった。それからは、何度もダメだといっても聞いてくれないので、結局私は自宅に帰るまで飲まず食わずのひもじい状態でずっと過ごす羽目になった。また、食事の度に母の義歯を洗わなければならないのだが、生理的に受け付けず、そのたびに吐き気を催し、背筋を震わせながら洗って手渡したあと、込み上げた苦い胃液をトイレに吐きに行っていた。そして、帰りの電車の中では、母親の介助すらまともにできないのか、と、自らを責めてしまっていたのだった。
早く、この地獄のリハビリの期間が終わればいいのに、とずっと思い続けていたのだが、もうすぐ退院する矢先に、父が不慮の事故で亡くなってしまった。姉も私も、もちろん義兄や夫もそのことを母に告げることができず、リハビリ病院の看護師長さんに相談したところ、告げる役目を引き受けて下さった。一筋涙を流しながら、母の気持ちに寄り添いつつ話してくださった姿を未だ忘れることができず、どれほど感謝してもし足りないぐらいである。
父の葬儀の際、隣に座る夫が突然涙を流し始めた。父は夫を気に入っていて、夫もいつも楽しそうに話をしていて、夫にとってはいい義父だったのかもしれない。当時、夫がそのことについて触れた文章には、『いろいろなことが思い出されて、泣いてしまった』というようなことが書かれていたように記憶している。この時を最後に、私は夫が涙を流したのを見たことがない。
私の方はといえば、もう何年も経ったのだけど、生きていない事は理解しているものの、未だに父が亡くなった実感がないというのが正直なところだ。父によってもたらされた数々のつらいことやその所業を許せてはいないし、きっとこの先も許すことはないのだろう。けれど、恨むことはやめた。色々あった、つらかった、父のことを好きにはなれない。でも、こうして積み上げた人生の延長線上に、今の夫との生活がある。別に運命とか自分が選んだとかではなく、単に、過去の私の未来に現在の私がいる、そう思えるようになった。つらいことを知っているからこそ、少しだけ強くなれたのかもしれない。つらい人には優しく接したいとも思えるようになった気がする。決しておすすめはできないけれど。
父が亡くなってしばらく経って、母は件のリハビリ病院を退院することとなった。母は、姉妹のどちらかと一緒に住みたがったが、二人ともが集合住宅に住んでおり空いた部屋もないことから、ない袖は振れないので、施設を探した。
ようやく、姉の自宅近くの施設に入居することとなったが、まだ私の地獄は終わらなかった。今度は、リハビリ病院よりもさらに遠くて交通の便も悪くなり、平日の仕事帰りに寄ることができなくなった分、休日に負担がのしかかってきた。次第に、共働きの貴重な週末を潰されてしまうことに苛立ちを覚え、夫に言わせると私はいつも不機嫌な顔をしていたらしい。それでも、母に子どもたちを会わせることが親孝行だと必死に自分自身を納得させようとしていた。夫も敢えて何かを言うことはなく、行く、といえば黙って車を運転して私たちを連れて行ってくれた。
そんなある時、母が持病で入院し、何度か見舞いに行っていたら、一切姉から連絡もなく突然退院してしまっていて、それについて尋ねてもなしのつぶてだったことがあった。その時初めて、夫は少しだけ怒って、戻っているであろう施設にも立ち寄らず、私たちはそのまま帰宅した。私も、正直、自分の限界が近そうなことを感じ取っていたので、もう何も言わなかった。むしろ、内心は会わなくて済むとホッとしていた。夫が怒ってくれたのも、私が自分のせいだと思わないようにするためだったのかもしれなかった。
この時のことを子どもはどう思っていたのだろう、答えを聞くのが怖くて、未だに尋ねることはできていない。
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