#07 難病のその後の話と再び引っ越し

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#07 難病のその後の話と再び引っ越し

 どうにか退院できた私を待ち受けていたのは、生まれ育ったところを離れて移り住んだ家がまた住めなくなる、ということと、入院した時に健康保険に未加入状態だったため、高額の医療費を請求されるという事態だった。  家が住めなくなった理由は、父がローンを払っておらず、母はそれすらも我関せずという態度で何もしなかったからだ。つまり差し押さえだ。  そんな理由で家が住めなくなるぐらいだから、当然、高額の医療費など払えるわけがないし、物理的にも離れたところに引っ越すことになったため、難病を抱えながらも、その病院には通えなくなってしまった。  ただ一つ幸いだったことには、いわゆる初回発作型だったらしく、寛解してそれ以来一度も再燃しなかったことだった。  引っ越し先の家を探したのは、父でも母でもなく姉だった。母は、占いで自分が主になってはいけないと言われたから、という意味不明な主張を繰り返して一切家探しをせず、姉がやっと見つけた家に対して、遠すぎるとか田舎だとか、文句たらたらだった。そのころには、もう父と母だとは思っていなかった。ろくでもない男とわがままな同居人ぐらいに割り切らなければ、もう、とてもじゃないけどやっていけなかった。  通学時間が1時間弱のところが1時間半に延び、病み上がりの身体で毎日へとへとになって学校に通った。そんな中、担任の先生が、私に天文部をすすめてくれた。それは私の人生を大きく変えることになるのだが、そのことはまた別の機会にしたいと思う。  でも、とにかく天文部の活動のおかげで、どうにか自分を保っていられた。色々な星座やそれにまつわる話はとても楽しかった。当時の私は、国語と英語が得意で、高村幸太郎や北原白秋などの詩集を読みふけるのが好きな文学少女(!)だったので、文系に進もうと思っていた。でも、天文部が楽しすぎたのと、顧問の地学の先生への憧れというか淡い恋心もあって、地学を勉強したいと思うようになっていた。それに、当時は女の子の幸せは結婚して専業主婦になることみたいな風潮が全盛期の中、自分の父母に嫌悪感しかなかった私は、結婚なんてまっぴらごめんだと思っていた。理系に進めば、一生自分で食べていけるようになれるのではないか、という考えを持つようにもなっていたのだ。  担任をはじめとする先生方の反対を押し切って、理系進学コースを選択した私は、年度初めの実力テストで、国語の学年トップをとってしまった。文系にすれば、と勧めてくれた国語の先生が答案を返してくれる時の視線がいたかった。正直、数学も物理も、いってみれば地学も得意じゃなかったけど、それでも頑張って勉強した。勉強は私を裏切らない、それが私が唯一信じられるものだった。  当時の私が課されたことは、進学するなら、家から通える範囲の国公立大学に入学することだった。相当高いハードルを課されてしまったことと、高二の数か月ほどの授業内容が、病気で全く追いつけていなかったこともあって、センター試験の点数は揮わなかった、というか、実力相応だったのだと思う。  その点数を見て、ここぞとばかりに父と母が罵ってきた。その時は、頭が真っ白になって全く覚えていないが、姉が言うには喚き散らして部屋に閉じこもったらしい。  ひとまず、二次試験を受けるもすべて不合格。今更就職先を探しても難しいだろうし、あの日、私に取り立ての応対をさせた母の背中を思い出して、どうしても母のようにはなりたくない、という気持ちが強かったから、浪人して再び大学受験をする、と決めた。
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