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堕ちる
「天使サマでも、人間みたいに感じるんだな」
背後で悪魔が言う。耳に吐息が触れ、反応しないようにするので精一杯だった。人間に様々な悪徳を吹き込むその息は、禁断の果実の香りがする。
「人間みたいに……なんて」
「不満か? それなら、人間以上に、と訂正してやるよ」
悪魔の指が肩甲骨をなぞる。今は仕舞っている羽根の縁に当たる部分をそっと撫でられると、背がのけぞる。
「…………っ!」
「声、上げても良いんだぜ」
笑いを含んだ言葉に、どうにか首を振る。こんな状態を、そんな声を、万が一にも主に聞かれるわけにはいかない。悪魔は面白がっているのだろう、愛撫を止めようとしない。微弱な感覚が波のように襲ってきて涙が出そうだ。
「かわいいな、天使サマは。これだけでそんなに感じるなんて、これからが楽しみだな」
「こ、これから……?」
そもそもどうしてこんなことになったのかもよく分からないのに、これから何をすると言うのか、さっぱり分からない。これではまるで、動物のようではないか。
「そうだよ。これは動物がすることさ」
私の考えを読んだように、悪魔は言った。いつのまにかその両腕は、私の身体の前に回されている。密着した冷たい身体が、心地よく火照りを冷ましていく。
「俺たちには本来、必要の無い行為だ。そもそもこの身体からして、下界に顕現するための作り物の容器に過ぎない。それも、人間という動物を模し、五感なんて面倒極まりないものを有している。何故か分かるか?」
悪魔の髪が、私の首筋に当たってくすぐったい。そちらに気を取られて、質問の意味を理解するのに数秒掛かった。
「俺たちを作りたもうたご主人サマ方は、俺たちに人間を理解させたいのさ。人間を理解した上で、監視し、導いて欲しいのさ」
悪魔の骨張った手が、私の腰から太腿の辺りを何度も撫でた。なんだかぞわぞわして落ち着かない。気を抜くと腰が揺れてしまいそうだ。
「もう、やめ……、ん……っ」
恥ずかしくなるような声が出てしまい、私はいたたまれなくなった。早くこんなことはやめさせて、離れなければいけない。これが動物のすることと同じならば、天使である私が、そんなことをすべきではないのだ。
頭ではそう思っているのに、身体は言うことを聞かない。眠りに落ちる直前のようなぼんやりした意識の中で、悪魔から与えられる刺激の一つ一つが気持ち良かった。
「そうだろう、これは気持ち良いんだよ」
悪魔が囁き、私の耳朶を口に含む。一度冷めたはずの火照りが、再び身体を焦がす。同時に悪魔の手が、身体のあちこちを掠めるように撫でてゆく。寒気に似た感覚とくすぐったさに、思わず身をよじる。
「天使サマも俺も、生殖機能は無いよな。だから本当の意味で人間を理解することは不可能だ。でも、それでもこの容器には、感覚と器官が備わっている。快感は、生殖機能が無くとも感じられるんだ」
「な、何を言って……」
「これは実験なんだよ。俺たちがどれだけ人間のことを理解できるのか。人間の感じる感情や身体的感覚……一人では分からないそれを追求するという……」
それならなぜ私ばかり、こんな風に触られ、翻弄されなければいけないのか。悪魔は今や、本来的な機能の無い、形ばかりのソレに指を這わせている。今までとは明らかに種類の違う刺激が、たださえ理解不能な事態に混乱している頭を、更に溶かしていく。
「……はぁっ……はぁ……っ、ん……」
冷静に考えられない。頭と、悪魔の指が動くその部分に熱が集中しているようで、自分の脈動の音が煩い。今まで人間の身体がこんな感覚を捉えるものだとは、誰も教えてはくれなかった。主も、他の天使たちも、こんな状況に陥る天使がいるだろうことを予測したことがなかったのだろう。天使はただ人を見守り、良い方向へ導くためだけに、この姿をとっているのだから。
「人間も、もちろん他の動物も、程度や行為の差こそあれ、この衝動に突き動かされて繁殖していったんだ……これだけ動物が溢れかえっているのも道理だな」
悪魔が囁く、それだけのことが、何故だか感覚を加速させる。熱が溜まって溢れそうだ。
「ん……っ、も、もう……だめ……変……」
「変じゃないさ。これが正常だ」
悪魔の言葉と同時に、頭が真っ白になった。何か叫んだような気もするが、記憶が定かでない。朦朧としながら悪魔の肩に凭れると、優しく頭を撫でられた、気がした。
数分間、殆ど夢の中にいたようだ。気がつくと、悪魔の腕に抱かれるようにして寝台の上だった。
「さすがは天使サマ。我を取り戻すのが早いね」
「くっ……この、悪魔が……」
まだあまり力の入らない身体を無理矢理起こし、悪魔の腕を解いた。向き直って口を開こうとした刹那、悪魔の顔が近づき、そのまま口づけをされた。
「……ふっ……んんっ」
どうにか腕に力を入れて、その身体を引き離す。案外あっさりと悪魔は身を引き、ぺろりと舌舐めずりをした。
「まあ、そんなに怒るなよ」
「怒るに決まってるだろ……! これは……こんなの……」
「こんなの、ただの実験だよ。言っただろ? お前だって、同意した筈だ」
「それは……! 人間をよく知る良い方法があると言うから……!」
シーツを握る手に力が入る。騙されたという事実と、先ほどされたこととが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり、どう対処すればいいのか分からなくなる。
俯く私の耳元で、悪魔は言う。
「それに、悪くなかっただろう?」
羞恥に、カッと顔が熱くなる。天使である私が、悪魔にあんなことをされ……あまつさえ、あんな醜態を晒したなどと知れたら。
無意識のうちに十字を切っていたらしい。気がつくと、悪魔は少し不機嫌そうに寝台から降りていた。その様子に、心のどこかが揺らいだ。
……揺らぐ? 何に揺らぐというのだ、この、主への忠誠が?
「さっきも言ったが、あれは実験だ。俺とお前のな。俺たちにとって、同意は契約だ。破ることはできないからな」
「……あれきりじゃないのか」
「だってまだ、俺は楽しめてないんだぜ?」
にやりと笑うその顔に、鼓動が早まるのが分かった。……私は期待している? いや、違う……これは悪魔に対する天使としての本能だ、騙されたことへの怒りだ。何より、主を裏切ることへの悔恨だ。
「まあ、そんなに肩肘張るなよ。リラックスしていこうぜ、兄弟」
軽く手を振って、悪魔は消えた。それまで必死に力を入れて起こしていた半身を再び横たえながら、私は流れる涙が何の為なのか考えていた。
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