沈黙にとける

1/1
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

沈黙にとける

 常闇にとけ落ちる星々の雫。砂漠の地下を掘り抜いた、仰ぐ空もないこの空間が、「星に濡れる町」と呼ばれる由縁。岩の空一面に垂れる、その青緑の(きら)めきが、地底湖の上だけ消えていく。それを展望しながら、家の屋根の定位置に腰を下ろした。    時を止めた涙のような星の正体は、餌を待つ虫だ。粘液の露玉を連ねた釣り糸を垂らし、体を光らせて獲物を誘う。光の一粒一粒は小さく弱い。けれど草木などの燃料に乏しく、煮炊き場以外に火がない闇の町では、どんな光源も貴重だ。つつ闇に奥行きを持たせ、閉塞感を和らげてくれるだけで充分。地下の住民は夜目がきく。虫をかき集め閉じ込めて、手元足元を照らそうとは試みない。それに星は臆病だ。少し刺激しただけで光らなくなってしまう。    遠い下層の湖水を跳ね上げ、星を脅かす想像などして、足を揺らす。すると同時に、湖の上空に生じていた黒い流れが、星明かりの中に弧を描き走った。こちらへ近づいてくる。とける星々を扇ぎ消す羽ばたき。(はやぶさ)だ。   「君の食事時だったね。満腹かい」  隣に舞い降りた馴染みの鳥は、鋭利な爪で蝙蝠(こうもり)を掴んでいた。しかし口に咥えはしない。闇にぽっと浮かぶ白い胸が膨らんでいる。食事は済ませてきたのだろう。   「それ、リエルにお土産?」  主の名前を聞くと、隼は大きな丸い目で眼下の一点を見つめた。自分が飛び立った場所。すり鉢状の町の中層、煮炊き場がある中央広場の鐘楼(しょうろう)を。    それにつられて目を向けた僕に――不可視の矢が、飛来した。  思わず立ち上がった。驚いた様子の客鳥にごめんと一言、家の外壁に沿う、階段という名の瓦礫の山を駆け下りる。  最下段を踏んだ瞬間、羽音がした。砂を散らして着地した隼が、もの言いたげに足踏みをする。無言の非難に、僕は再度謝った。  しかし仕方なかったのだ。鐘楼から、彼が確かに視線という矢を僕に射かけた。それで反射的に体が動いた。いつからか、人の気配を感じると逃げ出す癖がついている。   「ここにいるとリエルが怒るよ。帰りなよ」    隼は動かなかった。  かつて渡りの途中で捕獲され、この町で殖やされてきた隼たちは賢く、今や人の望みをすっかり心得ている。爪の鋭さに自覚があり、革の手袋をした鷹匠の手にしかとまらない。獲物を狩っても許可なく食べない。食事の合図で放されれば、決まって主にも持ち帰る。  促されてすぐ帰らないのも、僕の本心を悟っての配慮に違いない。甘えたい気持ちがこみ上げた。僕のための優しさ! その希少性たるや、草木も光も比にすらならない。  けれど僕は(かぶり)を振った。一時の安息のために、底辺の立場からさらに転落するなんて、愚の骨頂だ。この隼が僕のせいで叱られるようなことも、あってはならない。 「ほら、それを彼に届けなくちゃ」  砂に(まみ)れた蝙蝠と鐘楼とを、交互に指し示す。聡明な隼は手土産を掴み直し、羽撃ちして空き家群を越えていった。    間もなく、昼餉(ひるげ)の知らせがあるだろう。リエルが釣鐘を叩くのだ――昔、僕と二人で鳴らした鐘を、違う誰かと、あるいは一人で。    その光景を思うが早いか、果たして鐘は鳴り響いた。隼が去り、点々と光り始めていた頭上の星が、一斉にかき消える。    この胸のもやもやも消えればいいのに。もしくは有り余る暗闇を飲み込めたら。心の目が見えなくなれば、もやもやに気づくこともない。こう苦しいより、何も感じない方がいい。    食事が供される中央広場の賑わいが伝わってくる。僕は人気(ひとけ)のない最上層から動けない。家にも入らず(うずくま)った。どうせお腹は空いていない。いいから何も考えるなと自分に言い聞かせたが、もやもやが勝手に記憶の引き出しを漁り、奥に入れておきたいものばかり選んで放り出す。    リエルが――彼のみならず町の誰もが、僕とは口をきかないこと――それが全部、ほかならぬ自分のせいだということ。    そうだ、悪いのは僕なのだ。拾われた身でありながら、町の掟を軽んじて、地上へ出た。制裁を受けて当然だ。    けれど本当に、これは正しいやり方なのか。誰の名前を呼んでも、振り向いてさえもらえない。自分が本当に存在しているか不安になる。僕の罪はそんなに重いのか? 自分の輪郭が沈黙にとかされ、消えていくような恐ろしさを、一生味わわなければならないほどに?    ……負の感情は、抱き続けるには重すぎる。宿主の疲労に影響されてか、悪戯の限りを尽くしたもやもやも、今や漫然と胸に漂うだけ。  懊悩(おうのう)の波間に、僕は無理矢理顔を上げた。とける星の幽光が戻っている。その下を飛んで訪れた、名無しの隼の温情を思うと、ようやく(なぎ)が訪れた。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!