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鐘楼に上るのが日課として定着した頃、転機が訪れた。リエルの父親が狩りの途中で、豪雨による鉄砲水に見舞われ、亡くなったのだ。
地上の雨は数年に一度、いざ降れば激しいと聞く。しかし砂漠の砂は水を吸いにくいこと、大量の雨水が地表を流れ、低地を襲うことは知らなかった。
リエルは僕に、葬儀には来るなと念を押した。
親同然に慕っていた人の訃報は、耳から頭へ容易に到達しなかった。それでも遺体を見て実感したら、また地上が怖くなる。そんな気がした。リエルもそれが心配なのだろうと、僕は彼の言葉に従った。唇を引き結んだ彼を見送ったときは、決断を少し後悔したが。
リエルが顔を見せない間、家にいても落ち着かず、目的もなく周囲の廃墟を彷徨った。その途中、岩の天井を屋根代わりにした一際高い建物から、水音がするのに気がついた。最上層に水源はないはずなのに。
入口は物で埋まっている。穴でもないかと探すと、隣接する建物の内壁に扉があった。
町の民家はどれも砂岩に穴を開けただけの簡素なものだ。扉など、煮炊き場ほか極一部の施設にしかない。珍しいなと手をかけた瞬間、傷んでいたらしい扉は奥に倒れ――視界が真っ白になった。
驚いて体を反転させる。ズキンと痛む目を細く開けると、足元に人型の黒い染みがあった。ぎょっとして後退る。が、付いてくる。ああ、影というやつか。僕は胸を撫で下ろした。自分の形と動きが写し取られる様は、落ち着いて見れば面白いものだった。
目が慣れると、光が差し込む部屋に入り、天井を観察できた。木の根らしきものが砂岩の層を突き破り、子ども一人通れそうな穴を開けている。水はそこから滴っていた。
それを見て閃いた。リエルの父は見つかったが、彼の隼は行方不明だと聞いた。探しに行こう。人と違って隼は飛べる。きっと鉄砲水を逃れたはずだ。父親の形見が生きて戻れば、リエルの寂しさも癒えるだろう。僕はすぐさま木の根を掴んだ。
思えば浅はかな考えだった。鷹匠でもない、地上を歩いたこともない僕が、都合よく隼を連れ帰れるものか。
当然、結果は失敗だった。闇の壁がない世界は、一羽の鳥を探すにはあまりに広く、膨大な光と熱と色彩で僕を圧倒した。ただ、リエルを喜ばせたい気持ちが勝り、恐怖はなかった、と思う。途中から記憶が曖昧だ。もう少しもう少しと歩き続け、情けないことに、どうやって帰ったか憶えていない。鐘の音で目を覚ますと、自宅の寝台の上だった。
空腹感はなかったが、リエルの様子を知りたくて、中央広場へ下りた。
「掟を破って外に出るからだ」
僕は立ち竦んだ。今、なんと聞こえた?
「階段広場の見張り番は?」
「通してないと言ってるが……」
外に出たと気づかれている!
逃げたい。そう思ったが踏み止まった。素直に謝った方がいい。見張り番に怠慢の濡れ衣も着せられない。
意を決して、僕は叫んだ。
「ごめんなさい! 天井の穴から出たんです、階段広場へは、」
違和感を覚え、言葉を切った。皆、何も聞こえなかったかのように話し続けている。あの、と肩を叩いても反応してもらえない。
無視。簡単で残酷な罰だ。そのとき初めて恐ろしくなった。自分は「いる」と信じていても、他者がそれを認めないなら、思い込みでないとどうして言えよう。この目には見える手や足が、本当は実在しなかったら……。
ふと思い当って踵を返した。影だ。自分の黒い写し絵。あの部屋に行けば、天の火が僕の存在を証してくれる。
そして光差す部屋に飛び込んだ僕を――目と肌を焼く熱が襲った。最初はこれほどの痛みはなかった。外の光で皮膚を傷めたか。たまらずよろめき、尻餅をつく。
「迎火式はまだ先だし――外に出るときは一緒だって言ったのに」
掠れた抑揚のない声がして、瞼の裏が暗くなり、痛みが消えた。
リエルが、光差す部屋の入口を塞いで立っていた。僕は狼狽えた。まさか追われていたなんて。
君のためだったと言えば勝手すぎる。好奇心に負けて裏切ったとも思われたくない。咎め口調の彼に返す言葉がなく、今度こそ僕は逃げ出した。
後日、光差す部屋を訪れると、倒れた扉が枠に戻り、ご丁寧に粘土で封鎖されていた。そしてリエルはあれから、時折目を向けては来ても、町の皆に倣い、僕と口をきいてはくれない。
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