30人が本棚に入れています
本棚に追加
8.徹底的愛情
「ただいま、母さん」
ハロルは腕を伸ばし、ミラルもそれに合わせて顔を差し出した。指先に感触が伝わると、慣れた動きでミラルの頬にキスをする。ハロルとミラルの間で欠かさず行われる挨拶だ。
だが、それを知るはずもないリベルダは驚きのあまりぼんやりしていた。ロイツェの人らはパーソナルスペースが無いのか。もしや自分の家が接触しなさすぎるのか、という考えさえ浮かぶ。
「おかえりなさい、ハロル。で、あなたがリベルダくんね!」
「はい。はじめまして」
ミラルは顔を輝かせ、リベルダの手を取った。溌剌とした声とベリーショートの黒髪はまさにハロルの母親といった姿で、血筋の濃さを感じた。ハロルやカリレよりも凛々しい顔をしている。可愛いというより、美人の類に入るだろう。
「ハロルから色々話は聞いたわ。本当に大きいわね」
ミラルもハロルと同じくらいの背丈なので、見上げることになる。
「お、リベルダくん。いらっしゃい」
「お邪魔します」
奥からカリレが出て来た。どうやら二人よりも先に着いていたらしい。
あの事件の後、話を聞いたカリレは絵に描いたように心配し驚いた。そしてハロルを抱きしめる……かと思いきや、リベルダも一緒に腕の中へ入れた。本人も予想外の行動だったらしく、リベルダは謝られたが、笑って許した。むしろ嬉しいと伝えると、実はもうリベルダのことを教え子だと思っていると、照れくさそうに微笑んだ。そして、これを機に呼び方を変えようと、名前で呼ぶことになった。
「とりあえず入って、何も無い家だけど!」
ミラルの言葉で場所を変えた。
「リベルダくん、色々大変だったろう?」
人数分のソファは無いので、ハロルとリベルダはソファに、ミラルとカリレは椅子に座り、カリレが切り出した。
「まぁ、それなりに」
事件の事情聴取を終えた後、リベルダは言った通り、庶民向け新聞社に会見を開いた。そして舞踏会にも積極的に参加し、貴族への喧伝も行った。ハロルも手伝ったが、リベルダがほぼ一人で完遂したと言っても過言ではない。
「私もその記事見たわ。若いのに立派ねぇ」
「いいえ、まだまだです」
今は活動が一段落ついた状態だ。しばらくは人々に追い回されて忙しくしていたが、とりあえず全てに説明は終えた。今では国中にリベルダを知らぬ人は居ないほどになっている。
「あ」
カリレがふと口を開いた。
「正式な書類は後から来ると思うが、退学しろとのお達しだ」
「あぁー、そりゃそうか」
魔法学園なのだから、魔法が使えないと分かれば用無しなのは当然だろう。通えと言ってきたのは学園側なので、立ち退けというのも冷たい話だが、予想はしていたので誰も驚きはしなかった。
「教科書も制服もわざわざ買ったんだけどなぁ」
「学外でも俺が授業するよ。どうせ俺もハロルと一緒に解雇だ」
「えぇ、おじさんの授業眠くて嫌だ」
「なんだと」
ハロルは冗談めかして言うと、カリレはムッと睨んだ。だがこれは恒例の流れであり、一拍開けた後、二人は揃って笑った。
「そうか……ハロルの制服姿はもう見られないのか……」
リベルダだけが切なげな顔をしていた。それもしょうもない理由で。
「ハロルは制服もよく似合っていたのに、寂しいな」
「お前それ、母さんの前でもやんのな……」
「関係無いだろう。むしろお母様の前だからこそだ」
ハロルの母親の前だろうと変わらず、リベルダは手を取り、愛を説いた。彼に羞恥心というものは無いのか。結局、照れたリベルダは事件後の一回きりだ。
「あはは、話に聞いた通りだわ!」
ミラルは軽快に笑った。
「そうだ。ハロル、結婚しよう」
「はいはい…………は?」
適当にあしらおうとしたが、聞き捨てならない言葉が聞こえた。この場に居るリベルダ以外の全員が、流石に身構えた。
「卒業まで待つつもりだったが、退学ならばもう良いだろう?」
「どういう理屈だよ!」
「学園側がハロルを追い出すというのなら、逆手に取って寿退学にしてしまおう」
「なんだそれ……!」
本当に理解できない理論にハロルは混乱した。
貴族の多い学園なので、寿退学や家を継いで退学する者も居る。それに対して疑問は無いが、いくらなんでもいきなりすぎないか。
「ならばせめて婚約だ」
左手の薬指に口付け、囁いた。
「ここ、予約させてもらうぞ」
頭の奥で痺れるようなリベルダの声が、ハロルは一番苦手だった。いつも煩い声が急に静まると格好良くて、逆らえない。
「……うん…………」
顔を真っ赤にしながら、頷いた。ハロルはすっかりリベルダに弱くなってしまった。こんなにも好きなのが、恥ずかしい。
「あら、ハロルも満更じゃないのね」
「そうそう。最近はデレデレで……」
「いいから! 晩飯、食べるんだろ!?」
ハロルは半ば叫びながら、ミラルとカリレの話題を切り替えた。
そう、本日の名目はリベルダに御馳走することだ。ミラルがリベルダに会いたがっており、リベルダも挨拶したいと言ったので、特に難航せずに決まった。そもそもリベルダには家を知られているため、いずれ入れることになるだろうと思っていた。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
ミラルは心底楽しそうに笑った。久々にハロルとカリレ以外に料理を振る舞えて嬉しかったらしい。
途中、リベルダが全く料理ができないことが判明したが、そこは流石に生粋の貴族だと納得もした。いくら身分差別意識が無くともも、今までやってこなければ家事は身につかない。練習すればできる、とリベルダは誤魔化すように口にした。
「反復練習に限るな」
「全くだ……またやってみるよ」
二人は並んで皿を洗っている。
リベルダならば自分が練習せずとも料理人くらい簡単に雇えそうなものだが、できないことをそのままにしておくのが癪らしい。
「しかし、ハロルも料理上手だな」
ミラルが主に作ったが、ハロルも時折呼ばれていた。そして手際良く調理を済ませていたのだ。
「昔からやってて…………あ、母さんに言ってなかった」
最後の一枚の皿を乾かすために立て掛け、手を拭いた。そしてダイニングテーブルで紅茶を飲むミラルの元へ向かった。杖もついていなければ、ミラルが声を出している訳でもないのに、どうして分かるのだろうか。リベルダは見ていて引力のようなものを感じた。
「母さん、ずっと迷惑かけてごめん」
「へっ?」
ミラルはキョトンとした顔でハロルを見た。隣に座るカリレも同じ顔をしている。兄妹なので当たり前だが、そっくりだった。
「しなくていい苦労も、たくさんあっただろうし……」
「な、何言ってるの」
本当に心当たりが無いのか、ミラルの反応が悪かった。ハロルが違和感を覚え言葉に詰まると、ミラルの方から返された。
「あんた、一人で何でもできるようにしちゃったじゃない」
「そんなこと……えっ、あれ」
ハロルも自分で言っておきながら、よく分からなくなっていた。
「そりゃあ私だって最初は慌てたわよ。初めての子育てだし、分からないことだらけだわ。お兄ちゃんや近所の人の手もいっぱい借りたし」
女手一つ、他所はそう言うが、本人はあまりそう思っていなかった。カリレもすぐ側に住んでいたし、モルガンを始めとする町の連帯感も強く、困ったことがあればすぐに誰かが飛んで来てくれた。人に頼れる環境が整っていたのだ。
「でも大きくなるにつれてどんどん自分で練習して、勝手に完璧にしちゃってたわよ」
「そうだな。いつも教えるのは最初の一回だけだった」
横からカリレも同意した。
物心ついた時からか、それよりも前かもしれない。ハロルはずっと見えない分を取り戻そうと励んでいた。他の人は簡単にできることだから、と。しかし、幼少期から家事全般ができる子どもなど居ない。同年代の子どもが周りに居ないハロルはそれに気づかず、突っ走って焦るように覚えた。
「だからハロルには心配してないの。私が思っているより何でもできるもの。あんたが誘拐されていたって聞いた時も、あんまり驚かなかったでしょ?」
「た、確かに……」
実の息子が誘拐されたにしては、ミラルは落ち着いていた。怪我の有無だけ聞き、元気そうな姿を確認するとハロルの頭を撫でた。それだけだ。
「ハロルは強いし、私よりよっぽど落ち着いてて頭も良い。でも、一つだけ私の方が得意なことがあるわ」
ミラルは座ったまま手を伸ばし、ハロルの後ろ髪に触れた。
「人に頼ることよ。迷惑なんて、一回もかけられたことないわ」
伸ばした手を折り、ハロルを自分の胸に寄せて抱きしめた。ハロルは腰を曲げ、つんのめるように収められる。
「助けを求めるのが下手すぎよ。格好悪いことじゃないんだから、使えるものは使いなさい? お兄ちゃんとか便利よ」
「おい、便利とはなんだ」
突然いじられたカリレは口をすぼめたが、眼差しは愛おしそうに親子を見ている。
ミラルはくすくす笑い、ハロルと顔を合わせた。
「どうして私が目隠しをあげたか分かる?」
「か、考えたことない……」
「人に頼るのがとーっても下手なハロルに、手を差し伸べてくれる人が現れるように」
金の刺繍が施された黒い目隠しは、ハロルが外出する際、必ず身に着けている物だ。今日はリベルダが居るので着けたままだが、普段は家に入ると外すようにしている。
「杖だけじゃ目が見えないって確信できないけど、流石に目隠しでキョロキョロしてたら誰か気づくでしょ?」
ミラルは優しい手つきでハロルの目元を撫でた。
あの日ぶつかった少年のような、心優しい人のためにこの目隠しはあった。重点的ではなくとも、頭の片隅で認識して、気づいてもらうことに意味がある。
一人で歩き出してしまう息子へ、母から精一杯の手助けだった。
「だから謝らないで。私の立場無くなっちゃう」
カリレと同じようなことを言われたハロルは声を出して笑った。ずっとハロルの考え過ぎだった、という話だ。数年来の悩みから解き放たれた感覚だった。
「そういえばリベルダくん! ハロルの素顔は見たの?」
「えっ」
急に話しかけられたリベルダは驚いた。中睦まじげなハロルたちを邪魔しないように見ていたので、存在を忘れられたと思っていた。
「結構綺麗な顔してるわよ、今見る?」
ミラルはそう言って目隠しに手をかけようとするが、ハロルが先に腕から抜け出した。
「母さん!」
「恥ずかしいの?」
「違う!」
恥ずかしいというよりも、今じゃないという感覚だった。ミラルから強引に外されるのは違う気がする。
「俺も、ハロルが嫌がるなら見たくありません」
リベルダはキッパリと言い切ると、ミラルは息を呑んだ。
「すごい…………ハロルは良い人を捕まえたのね」
「ハロルを捕まえたのが俺です」
大真面目に返すリベルダが面白かったのか、カリレとミラルは揃って笑った。ハロルだけが居ずらそうに顔を顰めた。
「また絶対来てね! あと、本当にプロポーズしたら挨拶に来なさい!」
帰り際、ミラルはバシッとリベルダの背中を叩いた。リベルダは胸に手を添える。
「もちろんです。近い内、必ず伺います」
「あらやだ、近い内らしいわよ。ハロル」
「リーベ! もういいから、行くぞ!」
ハロルは彼の背中を押し出しながら振り返った。
「じゃあ、コイツ送るから」
「はいはい」
ミラルはヒラヒラと手を振った。
もう暗くなった空の下、二人は家を出た。ハロルは杖をつきながら歩き、リベルダに聞いた。
「あれ、馬車は?」
リベルダは質問に答えず、ハロルと手を繋いだ。
「少し、歩かないか」
「いいけど…………」
なんだか気まずい空気で、普段よりもゆっくりと歩いた。
「リーベ、あの、ありがとう。母さんと会ってくれて」
耐えられなくなったハロルが感謝の言葉を発した。リベルダは不思議そうな顔でハロルを見やった。
「母さん、家族以外の男の人苦手なんだ。強がってるけど、色々あったし……」
気丈に振舞っているが、ミラルも恐怖を味わった。信じていた人に裏切られ、赤子と自分だけ取り残される。途方に暮れることだってあった。
「だから自分からリーベに近づいてて、びっくりしたんだ。あと、安心した」
「そうか……なら、よかった」
リベルダは柔らかく笑った。そして強請るように首を傾げた。
「よかったついでに、一つ良いか?」
「お、なんだ?」
「あの……帰宅の挨拶は、いつもやっているのか」
ハキハキ喋るリベルダらしからぬ詰まった言い方だった。ハロルはポカンとしたが、すぐに気がつき顔を赤らめた。
「しゅ、習慣で、やりたくてやってるというか、癖で!」
しどろもどろになりながら訴えた。
頬へのキスは安心感による行動だ。相手がそこに居ると確実に知れる方法として使っている。ハロルは何事もできるだけ触れて確かめたがるからだ。
「俺には、してくれないのか」
前にもこんなようなことがあった。リベルダはなかなかに嫉妬深い。
ハロルが愛の告白……とも言えるか分からない暴露をして、付き合い始めてから何ヶ月か経っているが、未だにキスの一つもしていない。忙しない生活をしていたのでそんな暇も無かった。
ハロルは更に顔を赤くした。湯気が出そうなほどだ。
「あれは、出かける時と帰りの挨拶だから! 今はしない!」
拗ねたように横を向いた。今は、ということは別れ際だったらしてくれるという意味だろうか。
「それは……楽しみにしている」
どこまでもいじらしく可愛いハロルに、リベルダは好奇心が増した。初めて会った時からずっと、ハロルは興味の対象だった。
「ハロルは可愛いな」
「それはいいから…………」
まだ顔の熱も冷めないまま、ハロルは辛うじて返事をした。そしてボソッと付け加える。
「顔も見てないくせに」
リベルダは急に立ち止まり、ハロルの肩をグワッと掴んだ。そして一段と低い声で言う。
「ハロル?」
「は、はい」
「見たくないとは言ったがあれはハロルが嫌がる場合だ。俺がどれだけ我慢しているか……そもそも俺がハロルに可愛いと言うのは顔もあるがそれだけではない。行動や声色、状況も含めて複合的に可愛いと言っているのであって、素顔を見ていないことは……」
「待て待て、怖い」
ハロルは早口で喋り出したリベルダを制した。だが彼の勢いは止まらない。触れそうなほど顔を近づけた。
「つまり、俺はハロルの素顔が見たい」
「お、おぉ…………」
リベルダに圧倒され、ハロルは一歩引いた。
「別に見せるよ。リーベが見たいなら」
「そうなのか!?」
「え、うん。今日母さんから理由も聞いたし。お前は俺が嫌がっても助けてくれるだろ」
「もちろん。絶対だ」
ハロルはだんだんリベルダから遠ざかった。しかしリベルダが逃がすはずもなく、だんだん近づいている。結果的に同じ距離感のままだ。
「なら見せてやる。あんまり期待すんなよ」
腕を後ろに回し、躊躇無く結び目を解いた。そして顔を上に……リベルダの方へ向ける。
「はい、どうぞ」
どうにでもなれと顔を差し出したハロルに、リベルダは言葉を失った。
長い睫毛が影を落とす。精巧に作られた人形のようだ。リベルダは散々「本の世界の人か」と言われたことがあるが、ハロルも人のことは言えないだろう。零れ落ちそうな大きな瞳は黒々とした宝石のようで、目が離せなかった。
可愛い。そして有り余る美しさ。
月並みな言葉しか浮かばない。世界中の愛の言葉を捧げても足りないだろう。これはリベルダがハロルを贔屓目で見ているからなのか、それとも真実なのか。とにかく頭が混乱している。
「黙るなよぉー。いつもみたいに可愛いって言わねぇの?」
ハロルはふざけて笑った。目を細めた笑顔も愛らしく、リベルダは堪らず抱きしめた。
「可愛い」
「あはは、ありがと」
「世界一だ」
「えっ、規模でかいな」
素顔を見るという話なのに、抱きしめてしまったら本末転倒ではないだろうか。腕の力が強すぎて身体が浮きそうだった。
「リーベ、痛い」
「わ、悪い。ハロルがあまりにも可愛いから……」
リベルダは腕を緩めた。その瞬間、隙を見たハロルは彼の輪郭を手で捉えた。そして自分が背伸びするのではなく、リベルダを屈ませる。頬の場所を確かめ、唇で触れた。それはほんの、一瞬のできごと。
「はい、今日は解散! おやすみ!!」
ハロルは大声で羞恥を誤魔化しながら、リベルダを突き放し、背を向けた。いたたまれないのか、すぐさま歩き出す。
一方のリベルダは数秒間呆然としていたが、気づいた頃にはハロルを追いかけていた。そして腕を引いて振り向かせる。
「俺は、こっちが良いな」
顎を上向かせ、柔らかい唇にキスをした。次に目を開けたら、ハロルはどんな顔をしているだろう。リベルダの楽しみは尽きない。
最初のコメントを投稿しよう!