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日向はそのまま瑞垣を庭に案内した。
「この屋敷にも梅がございますので、そちらへ」
旦那様は桜がお嫌いなのですよ、と云う。
桜が嫌いという軍人は稀だ。というより、初めて聞いた。はあ、と瑞垣が目をしばたいていると、広い庭に確かに好い枝振りの梅が植わっている。
そして、庭の中程には椅子と卓が設えてあり、小張元少将が待って居た。
「遅いぞ」
そう云って笑う少将は、今日は洋装だ。薄鼠の三つ揃いを洒脱に着こなし、髪も丁寧に撫で付けている。先日より随分と血色も良いようだ。
瑞垣が挨拶しようとすると、煩そうに手を振って「さっさと座れ」と云う。こちらへ、と日向に促され、瑞垣も腰を下ろした。先日と同様に日向手ずから茶を煎れてくれる。
「今日は三河の干し柿が手に入りましたので」
どうやら、この屋敷の主は甘党らしい。
瑞垣が懐かしい駄菓子を眺めていると、小張少将は至極残念そうに溜息を吐いた。
「しかし貴様、五体満足だな。殴られるか刺されるかぐらいするかと思うたが」
少将や日向に、絵巻を手放した経緯を話した訳では無い。しかし、此の男たちにそんな尋常な道理が通じるとは思われなかった。別れた妻が自分を追って上海に渡って来た、くらいには思われているだろうか。
「も、申し訳ございません……?」
反射的に謝る瑞垣を他所に、「旦那様、若者を揶揄うものではありません」と日向が主人を窘めている。
と、ふっと日向が顔を上げた。
「お出でになったようです」
えっ、と瑞垣が聞き返す前に。
カッ、と
浅葱色の青天に、俄に紫電が閃いた。
落ちる、と思わず腕を上げた瑞垣だが、その後に来るべく衝撃はなかった。
ただ、雷を受けたように見えた庭の梅の周囲の空気が、ゆらり、と震える。陽炎のように木が歪んだかと思うと、揺らぎが結晶化するように、ぽつんと人影が現れた。
この事態に微動だにしなかった日向が、滑るように其の影に歩み寄った。
「お待たせ致しました、俵屋さん」
「……いいえ、此方こそ、日向守様には本当にお世話になりました」
人影はゆっくりと首を振る。
そして見る見るうちに徐々にヒトの形を為してきた。
顔立ちは整ってはいるが、何処か浮世離れした風情のある男である。町人髷の出で立ちは、商家の若旦那というよりは確かに職人のような。
俵屋と呼ばれた男は柔和な笑みを浮かべ、庭を見渡した。
「あちらは……右府様でございますか。お騒がせして申し訳ないことです」
「此の手の話はお好きなのですよ、お気になさらず。それから、彼方が今の持ち主のかたです」
「そうですか、わざわざご足労頂いて」
男は……宗達は、瑞垣に腰を折るように頭を下げた。
その横で日向が投げかけてくる視線に、少将は浅く頷いた。それから瑞垣に顎先で示す。
「渡してやれ」
否応など在るはずも無く、瑞垣は慌てて文箱を手に立ち上がった。
自分が震えていないのが不思議でさえあった。
近付けば、宗達は確かに此岸のものではなかった。ゆらゆらと輪郭が揺らいでいる。
文箱は瑞垣から日向に手渡され、日向が宗達の前に掲げると、絵師はふわりと微笑んだ。
「よう……お帰り」
「建仁寺の屏風では、足りませんでしたか」
日向の問いに、宗達は小さく首を振った。
「いいえ、そういう訳では。此方を……先に描きました。光広さまとのお約束でしたので」
「烏丸様と?」
「はい。承久本の写しをした際に、私の……雷神が見たいと、仰せでしたので」
宗達のはにかむような笑みに、日向は柔らかく目を細めると「成る程」と頷いた。
すると、宗達の声に呼応するように文箱がかたりと音を立て、刹那、小さなつむじ風と火花が。
「揃いましたね」
そうして日向は文箱を納め、宗達は改めて深々と一礼する。
「この度はお手数をおかけ致しました。改めまして厚く御礼申し上げます」
「いいえ、何ほどのものでも。烏丸様にもくれぐれもよろしくお伝えください」
そう、日向が言い終えるやいなや。
現れたときと同じく唐突に、
今度は、
轟!
と鳴った突風に、思わず瑞垣は目を閉じる。
はっと瞼を開いたときには、既に其処には何も。
ただ、ほど近い枝に一輪、梅が咲いていた。
紅梅だった。
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