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瑞垣がしばらく紅梅を見つめている横で、日向が、ふうとひと息吐いた。
此の男でも相応に力を入れていたのか、と思うと、なんだか笑えてきた。瑞垣も大きく息をする。庭を包む気に、幽かに梅の香が混じっているような。
「さて、これで絵巻は元通りに……此方には永徳殿の鳥獣戯画が戻りました」
「えっ?」
この文箱に、と改めて日向は手の中のものを掲げた。確かに、瑞垣が持参した風神雷神図が『元通り』に成ったというなら、宗達が借り受けた狩野永徳の鳥獣戯画の模本が戻って来た事になる。が、
「瑞垣さん、お持ちになりますか」
「い、否、それは……」
そんな、文字通り国宝級の文化遺産を手元に置く気にはならなかった。中身には……多少、興味はあるが、それはどうも、
後には引けぬような。
今ならまだ夢物語で済む話が、
見たら最後……戻る道は屹度、何処にもない。
磁場を持つような文箱から半歩身を引き、瑞垣は丁重に断った。
「私には過ぎた物ですので……」
「欲の無いことだな」
声の主を振り返れば鷹揚に構えた少将だったが、何処か詰まらなさそうに見ゆる。少将は続けて日向に「何者だ、烏丸光広というのは」と問うた。
手の中の文箱を見つめていた日向は、すこし笑った。
「あの御仁は帝の……正親町院の遺した鵺でございます」
ぬえ?
鵺とは顔は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇の伝説上の生きものである。夜に不気味な声で啼く化け物として平家物語等に描かれており、転じて得体の知れない人物を指すようになったが、正親町天皇の鵺、とは……?
瑞垣がまたもや困惑するのを他所に、少将は何かを得心したのか呆れたような顔になる。
「なんだ、藤孝の頼みではなく、帝の御為か」
「……徳川様の鵺でもございますよ。恩は売るものです」
ふん、と鼻を鳴らした少将は、次は瑞垣の方を向くと言い放った。
「痴話喧嘩の延長で上海租界を焼け野原にするところだったぞ。たわけが」
「はっ?」
まあ良い、と頷いた少将は目顔で日向を呼び寄せた。黒衣の家令はまた滑らかな足取りで戻っていく。
日向は卓上に件の文箱を置き、主を促したが、少将は首を振って中を改めようとはしなかった。
恐らく、写すこと自体が喜びだったであろう。
本邦の絵師であるならば……
其れが安土桃山時代の巨匠、狩野永徳であっても。
然うして描かれた絵巻は、果たして
少将もひととき、紅梅を見遣った後、
「永徳の鳥獣戯画は預かろう。そのうち細川に戻すか、宮城の連中に渡してやれ」
前半は瑞垣に、後半は日向に向けて促してから、つと手を伸ばす。間髪入れず、日向が其の手を取った。
「瑞垣とやら、わざわざご苦労だったな。代わりに己の蒐集物をくれてやろう。好きな物を持っていけ」
「えっ」
彼の部屋のコレクションを、ということだろうか。問いを重ねる前に、少将は腰を上げて日向に寄り掛かる。と、日向は軽々と其の身体を抱え上げた。黒衣の男は首に縋り付く主に「もう宜しいのですか」と問い、主は「よい。あとは好きにしろ」と家令の耳に囁く。
そして、
「お前も片割れにはよくよく詫びておくんだな」
と、日向の肩越しに少将は美しく嗤った。
日向は「暫しお待ち下さい」と瑞垣に言い残すと、主を抱えたまま母屋の方に向かった。
そう云えば杖がなかったな、と……
瑞垣はそのまま、庭の中にぼんやりと佇む。視線を上げれば、たった一輪だけ咲いた紅梅の向こう、西の空の底からじわりと紅色が滲んでくるところだった。
嗚呼……
秋が終わる。
瑞垣が随分と冷えた空気の中でひと息吐くと、日向が足早に戻って来る。
「いつまで経っても、我が儘なひとで」
囁くようにそう言って苦笑する日向に、瑞垣は尋ねてみようと思った。
「あの、少将さま……小張様のお体の具合は」
どうなのでしょう、と、慎重に切り出した瑞垣に、ああ、と彼はひとつ頷く。
「ひと頃より大分よくなったのですよ。此の件に随分とご興味をお持ちで、今日も楽しみにしておられていたのですが……俵屋さんから訳を聞いたら聞いたで、」
烏丸様が羨ましくなったのでしょう、と、不思議なことを云った。
この庭で目にしたもの、耳にしたことの大半が信じられない話ばかりで、瑞垣は其れを問い糾す気にはなれなかった。何れ……御伽噺のうちに還るのだから。
さて、と日向は卓上を片付けつつ、立て板に水と語る。
「お好きなものをお持ち下さい。永徳殿の作であれば、先日の洛中洛外図屏風の習作以外にも何点かございますが、茶器も幾らか。平蜘蛛はございませんが、曜変天目茶碗ならひとつございます。あれは旦那様のお気に入りでしたが、験が悪いといってもう、お使いになりません」
ご覧になりますか等と、何故か楽しそうに語る日向に、瑞垣はあと気の抜けた返事をする。特に何かを望むつもりもなかったのだが、その時ふと、呼び起こされた記憶があった。
「ああ、金平糖もお持ち下さい。沢山ございますので」
云いながら、改めて大事そうに文箱を取り上げた日向の方に、瑞垣は腹を決めて一歩、進み出た。
「それでは、あの、」
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