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結
「それで、これが、」
と、家主は卓に置かれた其れを見詰め、暫し口を噤んだ。
本件では三回目の瑞垣の語りだが、今回は明らかに尋常ならざる出来事ではあった。然し、やはり彼は疑義を呈する事も無く、黙って瑞垣の話を聞いていた。
夜になって風が出来た。
カタカタと鳴る窓の方を一瞥し、彼は「梅か」と呟く。それから、
「随分と欲のないことじゃな」
少将と同じ感想を口にして、それでも瑞垣が持ち帰ったもの……チェスボードを手に取った。開けば洒落た駒が並んでいる。海軍時代の物だとかで、各駒が船や港のものに見立てられた細工になっていた。
少将は将棋とチェスの名手だそうだが、陸に上がってからはまったく使う事も無くなったという。対局する相手はもう居ないと。瑞垣がそう伝えると家主は、
「そうか」
とだけ頷いた。
其の横顔はいつも通りに静穏で、その内側は窺えぬ。
家主の様子を横目に、瑞垣は新しい茶を煎れる。彼が上海に持ってきた昔のチェスボードは、記者倶楽部かその近くのカフェーにでも持っていこう、と決めた。ヒトとモノの縁があると云うのなら、一度縁が切れたモノを使うのは験が悪い。
黙ったまま茶碗を彼の前に並べ、合わせて持たされた金平糖を幾らか皿に出した。
彼は砂糖菓子の粒をひとつ摘まむと、ほろりと呟く。
「……狩野永徳は、新しい鳥獣戯画を描くつもりがあっただろうか」
「は?」
数百年の時を超えて受け継がれた絵巻を写す、男が。
天下人に乞われて絵を描く、時代の寵児だった男は。
其れこそ、甲乙丙丁の四巻に続く新しい絵物語の構想を練りながら、筆を運んでいたのやも知れぬ。
「そうさな……宗達も承久本の雷神に触発されて、新しい風神雷神図を描いた」
本人の言を借りれば烏丸光広の求めに応じて、と云う。
過去の傑作と出会い、触れて、新しい絵を描きたくなるのは絵師の本能であろう。其の筆の趣くまま、誰も見たことの無い世界を。
「絵巻を写すうちに、続く新しい絵を描くつもりが……覚悟は、出来たかもしれんな」
瑞垣の脳裏に、金平糖を光に透かす少将の顔が蘇る。
詞書きも着色もない、
然し、だからこそ、雄弁に物語る絵の中の生きものたち。
描くことで過去と未来と夢と現と対話し、新たな物語を紡ぐ喜びを!
そして、新しい絵を待つひとが居る幸せと。
「ヒトとモノを繋ぐ縁、か」
彼はそう云うと、金平糖を口に放り込み、「甘いな」と笑った。
それからチェスボードから駒を取り出し、茶碗を片手にきりきりと盤に駒を並べ始める。瑞垣はそんな家主を眺めながら、ひしゃげた煙草に火を点けた。
ゆらり、と紫煙が立ち上る。
其処でゆっくりと六つほど数えると、彼は立ち上って窓辺に近寄った。と、事もなげに窓を開け、振り返る。
瑞垣を見る。
「まァ、何にせよ、決着がついたところで」
一局、と。
彼はニコリと笑った。
此処でも、やはり瑞垣に拒否権はないのだ。
瑞垣は大仰に溜息を吐いてから、まだ長い煙草をもみ消した。
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