雨の日の恋人

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 昼間あんなに暑かったのに。眩しい太陽が迷惑なくらい輝いていたのに。不意に窓の外に影が差して私は時計を見上げた。針は四時半を少し過ぎた辺りを指している。冬場ならともかく、この時期に日が陰るには早すぎる時間だ。夕立がくるのかな、と思った。  終業までにはまだ少しあって、机の上には処理も半ばの資料が広げられている。それ自体は今週中に仕上げればいいのだけれど、他にも抱えている案件があるので出来れば今日中に終わらせたい。だから残業をするつもりだった。だけど、夕立が来るのなら話は別だ。私は資料に幾つか付箋をつけて片付けた。それからどっしりとしたマグカップの冷めたコーヒーを飲み干して席を立つ。給湯室でマグを洗って帰って来たらちょうどいいくらいの時間になるだろう。雨が降りだす前に退社したい。叶うのなら今すぐ飛び出したいくらいだ。 「まあ、そういう訳にもいかないよねぇ」 「え。何がです?」  思わず漏れた言葉にまさかの返答があった。てっきり独りだと思っていたので慌てて顔を上げると、同じ課の絵梨(えり)ちゃんがコーヒーを淹れていた。 「桜良(さくら)さんもおかわりですか? 注ぎますよ」  私が手にしたマグを指差して絵梨ちゃんがこてんと首を折る。 「ううん。今日はもう帰るの。でもありがとう」  絵梨ちゃんは私の言葉にちょっと不思議そうな顔をして、それからふにゃりと笑った。 「ああ。もしかして、雨降りそうです?」  包み込んであげたくなるような小さな手でマグカップを持つ絵梨ちゃんは、ほわほわとした印象と違って案外鋭い。夕立がきたら帰りたいなんて、私は誰にも話したことがないのに。 「どうして?」 「だっていつもそうですよー」 「嘘。そんなに分かりやすい?」  戸惑う私に絵梨ちゃんはんー、と首を傾げてからまたほにゃっと笑った。 「そうでもないです。デートですか? いいなあ」 「そんなんじゃないわよ」 「えー」  くすくす笑う絵梨ちゃんと一緒に給湯室を出て、帰り支度をする。終業と同時に立ち上がる私に隣の席の絵梨ちゃんがこそっと親指を立てて見せた。 「お疲れさまですー」 「お先に失礼します」  私は多少引き攣った笑顔で返して会社を出た。空を見上げるとどんより暗くて今にも降り出しそうだ。  デートかあ。そんなんじゃないけど、そうだったらいいのになあ。  雨が降りだす前に。足を早めながら、そんなふうに思った。    ☂️  街の外れにある公園は会社から程近い。正確に言えば公園が会社から近いんじゃなくて、公園から近いところに就職先を探したのだけど。実家は同じ市内にあるけれど、今は家を出てこの近くにアパートを借りて住んでいる。つまり私の生活はこの公園が中心だ。  近いんだから、一度アパートに寄って着替えてから公園に行ってもいいようなものだ。仕事用のタイトスカートとパンプスでは歩き難い。だけど遠くでゴロゴロ鳴る雷が急げ急げと私を急き立てる。空は今にも雨が落ちてきそうな灰色だ。私はパンプスのままハイキングコースを小走りで進んだ。  ここは大きな公園で、このハイキングコースの他にもアスレチックやキャンプスペースなんかもある。お天気のいい休日ならそこそこ賑わうけれど、今にも雨が降りだしそうな平日の夕方では散策する人もいないみたいだ。 「間に合ったー」  ハイキングコースの終点は拓けた小高い丘。真ん中に樫の木が立っていて、遊歩道を埋め尽くす勢いで季節ごとの花が咲き乱れる美しい場所だ。今の時期ならサフィニアやマリーゴールド。涼しげなブルーサルビア。至るところにベンチが設置されているけれどそれには座らない。昼間熱せられた空気が湿り気を帯びて纏いつく。急いで歩いてきたせいで汗ばんだ肌にブラウスが張りついてちょっと鬱陶しい。だけどそんなもの、ドキドキと高揚する気分に押しやられてあっという間に意識の外に落ちる。  丘の真ん中にある樫の木にそっと触れた。硬い木肌も昼間のおひさまに晒されて温かい。両方の手のひらをその温みに当てて、おでこをこつんと預ける。  もうすぐ夕立がくる。全然デートなんかじゃないけれど、大好きなひとに会える時間が。
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