雨の日の恋人

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 街の外れの大きな公園は子供を遊ばせるのにちょうどいい。広場の端っこには遊具もたくさんある。船を模したアスレチック付きのジャングルジムや秘密基地みたいなすべり台。海賊が手を広げた大きなオブジェからはブランコが垂れている。広い駐車場も完備されてるから、家から少し離れていても大丈夫だ。ママ友同士で誘い合わせて、ピクニック気分で出掛けてくる親子連れでいつも賑わっていた。  遊具で遊んで、広場を駆け回って追いかけっこ。家の近くの公園では禁止されているボール遊びだってできる。だから私はその公園が大好きだった。大抵遊び疲れて帰りの車で寝落ちて、晩ごはんよって起こされるまでぐっすり。親の狙いはそれなのかもだけど、私は私でうんと楽しんでいるから問題ない。  お友達と一緒に出掛けるときはいつもそんな感じ。だけど、たまにお母さんと二人で訪れるときには、子供の足にはちょっとしんどいハイキングコースをてくてく歩いて丘の上を目指した。  お母さんはベンチに座って文庫本を広げて。私は咲き乱れる花に顔を近づけて匂いを吸い込んだり、樫の木に抱きついてじっと目を閉じたり、いつもよりずっと静かに過ごす。私のお母さんはちょっとのほほんとした人で、今ほど世間が殺伐としてなかったせいもあって、私はひとりで好き勝手に遊んでいた。  一番好きだった樫の木には秘密がある。花の間を駆け回って疲れると私は必ず樫の木肌に抱きついた。拓けた丘の上で木陰を作るそこは日向よりも涼しくて、私はいつもほっと息をつく。そうすると吹き抜ける風に枝葉が揺れて、汗で張りついた髪を揺らすのだ。それから、そっと頭を撫でてくれる。  樫の木が頭を撫でてくれるなんて。まだ幼かった私でもちょっとおかしいって分かってた。だから誰にも秘密にしていた。だけど私はそれが嬉しくて、みんなと一緒に遊びに来たときでも時々一人で丘を登って会いに来た。あんまり長く姿が見えないとみんなが心配して探し始めるから、急いで坂道を駆けて。  その日もみんなで公園に遊びにきて、ちょっとあっちで遊んでくるね、って私は駆けだした。夏の日差しがTシャツから伸びる肌を焼いて、つばの広い麦わら帽子の上で幅広のリボンが跳ねる。それに合わせて私の心も弾んだ。  どうしてあんなに樫の木が好きだったのか。今でも不思議だ。まるで好きな人に会いに行くみたいに、私は樫の木に会いに行っていた。  息を切らせて天辺に着くと、色とりどりの花が咲く真ん中で樫の木が待っている。さわさわと揺れる枝が手招きしている。私にはそう見えた。そう見えて嬉しくなる。だから私はハイキングコースを駆けてきたよりもダッシュで遊歩道を突っ切って樫の木に抱きついた。  風が吹いて枝が揺れる。そっと頭を撫でてくれる。何もかもが嬉しくて私はくすくすと笑った。  しばらくそうしていると、不意に辺りが陰った。もわっと周りの空気が湿ってぼつりと最初の一粒が落ちる。それからはあっという間で、ざあっと夕立がきた。 「雨だー。どうしよう」  木陰に雨宿りしながら空を見上げる。雨が降ったらお母さんたちはみんなを集めて屋根のあるところに避難するだろう。私のことも探して、いないことに気づいて心配するに違いない。 「困ったなあ」  雨のなか駆け戻るか、雨が止むまでここで雨宿りするか迷う。 「すぐに止むから暫く待っておいで」 「きゃっ」  頭の上から急に声が降ってきて私は飛び上がった。だって、樫の木で雨宿りしているのは私一人だ。声なんてする訳がないのに。 「あっちの方の空が明るいだろう? だからすぐに止むよ。雨のなか駆けたりしたら濡れて風邪を引いてしまう」  また声がして、私はきょろきょろと辺りを見回した。やっぱり誰もいない。幹の裏側も覗いてみたけれど、丘の上にいるのは私だけだ。 「だあれ? どこにいるの?」  誰もいないのに声がするなんて気持ち悪いし怖い。はず。なのにちっとも怖くなくて、むしろなんだか少しほっとして、私は訊いてみた。 「ここだよ」  上の方から声がする。私は言われるままに上を見上げて、びっくりして叫んだ。 「危ないよ。落っこちちゃうよ!」  だって樫の木の枝に男の人がぶら下がっている。暢気に片手を上げて振ったりして、本当に落っこちそうでハラハラする。お母さんよりもずっと若い、お隣の高校生のお兄ちゃんよりはちょっと年上っぽい、そのくらいの男の人。 「大丈夫だよ」  男の人は笑って、それからばっと手を離した。声も出せないくらい驚いた私の目の前にふわりと降り立って、ほらねって笑う。ぽんぽんと頭を撫でられて私はもっとびっくりした。 「樫の木のひと?」 「そうだよ」  男の人の手は、いつも撫でてくれる樫の木のそれとそっくりだった。
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