雨の日の恋人

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 私はますます樫の木が好きになって、お母さんにねだっては毎週のように公園を訪れた。男の人は雨が降らないと出てきてはくれないようで滅多に会えない。だけどいつも頭を撫でてくれたし、あの人が撫でてくれているんだと思うと小さな胸が妙に高鳴った。  ひとつだけ、前と変わったことがある。私はお母さんに樫の木のことを話した。だって雨が降ったらすぐに帰ろうとするから。せっかく雨が降ってあの人に会えるのに、そんなのは嫌だ。  普通なら気味悪がってもうここに連れてきてもらえなくなっていたかもしれない。だけどお母さんはのはほんとした人で。 「えー。じゃあ、次からは傘を待ってこなきゃ」  って言って、私が樫の木に抱きつくのをにこにこ笑って見ている。 「お母さんには見えないの?」  木の幹から上半身だけを出して男の人が頭を撫でてくれているのに。ほんのちょっと光って透けているけれど、私にははっきりと見えるのに。お母さんは首を振ってそれからまた笑う。 「見えないけど、桜良がすごく嬉しそうなのは分かる」 「気持ち悪い?」  私は恐る恐る訊いた。お化けが出る木なんて気持ち悪いって。お化けが見える私はどこかおかしいって。きっとそう言われると思ってこれまで誰にも話さずにいたのだから。 「どうして?」 「だって、お化けが見えるなんて変だもん」  ポツポツと降る雨が葉の間から落ちてきて私の肩を濡らす。その雨から守るように男の人が私をそっと抱きしめてくれる。不安な夜にお母さんがしてくれるみたいに。明るい空から降ってくる雨はまばらで、日が照っているから暖かい。それに滴は透ける男の人を通り抜けて私の肩に落ちるから全然雨避けにはならない。だけど安心する。 「桜良は気持ち悪いの?」  お母さんは遮るものが何もない広場に立っていて、私よりも濡れている。今日は傘がないから早く屋根のある場所に行って濡れた髪や腕を拭かないと風邪を引くかもしれない。分かっているのにまだ樫の木に抱きしめられていたい私は我が儘だ。 「気持ち悪くないよ。だって樫の木はいいひとだもん」 「じゃあ、お母さんも気持ち悪くない」 「変なの」  お母さんは変わってる。のほほんとしていて五歳の私でもたまに心配になるくらい。 「桜良が大好きなひとならお母さんも信じる。だけど、もし桜良に何かしたら切り倒しにくるから」  にまっと笑ったお母さんは、やっぱり変わってると思う。    ☔️  お母さん公認になったから、雨が降ったらレインコートに傘を差して、樫の木のひととお話をした。樫の木のひとはお父さんとお兄ちゃんのちょうど中間くらいの感じで、そうだな、親戚のお兄さんみたい。優しくて大好き。お母さんも私とおんなじような恰好で並んで立って、こっちを見て笑ってる。樫の木のひとが見えないのなら私は虚空に向かって喋る変な子なのに、お母さんは変だなんて言わない。楽しそうねえ、いいわねえ、ってにこにこしてる。だからお母さんも好き。  その日は遠くで雷が鳴ってた。不安を煽る音が少しずつ近づいてくる。 「今日はもう帰ろうか」  お母さんが言った。雷が鳴ってる方は空も空気も真っ暗だから、ゲリラ豪雨が来るかもしれない。名残惜しいけどしょうがないよね。手を振ってくれる樫の木のひとの横顔が稲光にぴかっと照らされる。雷はもう本当にそこまで近づいてた。  お母さんと手を繋いで歩き出したそのときに、どんと背中を押された。ものすごく強い力で、私もお母さんも花畑の真ん中辺りまで飛ばされる。傘が遠くに転がって、擦りむいた頬と手のひらから血が滲んだ。状況が飲み込めないまま、蹲って顔だけ樫の木に向けた。それはお母さんも同じだったようだ。 「痛たたた。桜良、大丈……」  身を起こそうとしていたお母さんは言葉の途中で固まった。私もあまりのことに声さえ出なかった。  辺りが一瞬明るくなって、轟音が響いて地面が揺れる。真っ直ぐに落ちてきた光が樫の木を貫く。あんなに大きな木が、真っ二つになって燃え上がった。その火は炎を透かす男の人にも燃え移って、端から崩してゆく。なのに笑ってた。あの人は笑って私とお母さんを見てた。 『よかった。ありがとう』  声は聞こえないけれど、ゆっくりと動いた唇はそう言っていたと思う。 「やだ」  ありがとう、ってなあに? ありがとうは私たちの方だもん。助けてもらったのは私たちだもん。嫌だ行かないで。  木が燃える。あんなに堂々と立っていたのに、二つに割れて燃えてしまう。私を撫でてくれた手が燃え落ちる。向けられた笑顔が火に呑まれて消える。 「やだよ」  お母さんが後ろから私を抱きしめた。ぽつりと滴が落ちた。大きな滴が頰を打って、流れる涙と混ざる。あっという間に辺りが真っ暗になって激しい雨が打ちつける。 「桜良、ここにいると危ないわ」  お母さんが私を促した。私が踏ん張って動かないものだから、抱き上げて樫の木に背を向ける。 「やだよ。燃えちゃう」  坂を下りる間、私はお母さんの胸をぽかぽか叩いてた。傘は飛ばされたまま置いてきちゃったから、レインコートを直接打つ雨が痛い。意地悪するみたいな雨足だけど、これだけ降ったら樫の木の火も消してくれるかもしれない。 「ねえ桜良。樫の木さんがせっかく助けてくれたんだから、あのままあそこにいて火傷したり、雨に打たれて風邪を引いたりしちゃいけないのよ?」  お母さんの言うことはもっともらしいけれど私は聞きたくない。坂道を駆け戻って樫の木さんを助けたい。でもお母さんが離してくれない。そして、本当はそんなことできないって心のどこかで分かってた。 「やだもん」  私は聞き分けなく泣いて、お母さんを叩き続けた。暴れる子供を抱くのは大変で、子供の力でもあんなに叩かれたら痛かっただろうに。お母さんは一度私を諭しただけで、少しも怒らなかった。
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