雨の日の恋人

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 ポツポツと雨粒が落ちてきて遊歩道の枕木に水玉模様を描く。私は傘を差してパンプスの足を踏み出した。一歩進む毎に雨足が強くなって、樫の木の脇に人影が立つ。  あの日。雨に打たれながら丘を下りて、お母さんは管理事務所の人に樫の木が燃えたことを伝えた。車に置いてあったタオルで濡れた手足を拭って、私たちは無言のまま家に帰った。お母さんと一緒にお風呂に入って、私はまた泣いた。  どんなに樫の木のひとが好きだったか。燃えていく姿を見てどんなに怖かったか。もう会えないかもしれないと思うとどんなに悲しいか。切々と語る私に、お母さんはうんうんと頷いて。髪を洗ってくれて、私が体を洗うのを手伝ってくれた。湯船に浸かった私に今度はお母さんが語り掛ける。 「お母さんね。ほんと言うと、桜良の言うことちょっぴり信じてなかったの。樫の木のひとって、なかなか信じられないでしょ?」  ごめんね、ってお母さんが笑う。ちょっと悲しそうな顔で。 「でもさっき、ものすごい力でお母さんの背中を押してくれた手ははっきりと感じられた。本当にいたのねえ。桜良にはその人がちゃんと見えていたのね。大切なお友達だったのね。だから桜良が悲しかったり怖かったり、樫の木を置いてきたお母さんに怒ったりすることは、ちっとも間違ってないのよ」  泡だらけになった体に湯船のお湯を掬ってかけて、お母さんは私をじっと見た。 「きっと樫の木さんも桜良のことが大好きだったのね。だから助けてくれたんだと思うわ」  いつの間にかまた泣いていた私の頰を温かいお湯で撫でて、お母さんはくしゃりと笑った。 「だから、お天気がよくなったら樫の木さんにお礼を言いに行こう」  私は何度も頷いた。バカみたいに。後から後から涙が溢れてくる。今のうちにいっぱい泣いておくんだ。だって樫の木さんに会いに行くときには笑ってなくちゃ。でないと、最後笑顔を見せてくれた樫の木さんに笑われちゃう。私はバシャバシャと顔を洗った。擦りむいた手のひらと頰にお湯が滲みて、また涙が出た。    ☂️ 「樫くん」  明るい空から落ちてくる雨はやわらかで温かい。私はあの頃よりも少し小さい樫の木にそっと手を触れた。本当は直接触れたいのだけど、それはちょっと恥ずかしい。大きくなると子供の頃のように簡単にいかない。ぎゅっと抱きつけないし、大好きって言えなくなった。  後日会いに行った樫の木は根本近くから伐採されて焼け焦げた切り株になっていた。私は家で何回も練習した通り、にっこり笑ってお礼を言った。途中で唇が震えたけれど、奥歯を噛んで頑張った。  それからも度々会いに行った。樫の木さんはもう現れなかったけれど、それでも大好きだったひとの名残りがそこにはあった。  ある日知らないおじいちゃんがじっと樫の木を見ていた。白衣を着て、お医者さんみたいだった。 「おじいちゃんも樫の木さんが好きだった?」  私が話しかけるとおじいちゃんは嬉しそうに笑顔を返してくれた。 「も、ということは、お嬢ちゃんも樫の木が好きかい?」 「うん。大好きだったの」 「そうかいそうかい。それはいい。でもなお嬢ちゃん。大好きだった、っていうのは少し訂正しよう」  おじいちゃんが焼けた切り株を指差す。私はおじいちゃんの言うことが分からなくて首を傾げた。 「樫の木はな、真っ直ぐ下に下にと根が伸びる。地中の深いところまでな。だから幹が焼け焦げても、根っこは生きているんだよ」 「生きてるの?」 「そうだよ。だからまた力を取り戻したら芽を出す」 「ほんとに⁉︎」  どきどきした。樫の木さんが生きてる。いつかまた会える。 「だから。だった、じゃなくて大好きだと言おうじゃないか」 「うん!」  私は満面の笑みで頷いた。なんて素敵なんだろうと思った。
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