あの世に続く扉

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 あの日から僕は、夕立が降るたび、真っ白な景色の中に彼女の姿を探すようになった。  あの目が僕の脳裏に焼きついて離れない。  白煙のような雨の中、ハッキリと浮かびあがる彼女の瞳。必死に走りながらも、その目はずっと僕を捉えていた。  そして、彼女は僕に助けを求めていた。幼いあの頃の僕でも、確かに感じた彼女が発するシグナル。でも、僕は彼女のそれを拒んだ。面倒なことに巻き込まれるのはイヤだったし、他人事(ひとごと)であって欲しかったからだ。  あれから自責の念に駆られない日はない。  僕に何ができたのだろうか。無責任に逃げ出したこの僕に……。  雨宿りで駆け込んだ軒下に立ち、今日もこうして夕立を眺める。  猛スピードで走り抜ける車がはねた水しぶきが、僕の下半身を濡らした。雨水でまだらになったジーンズ。不格好な自分に気づくと、急に笑いがこみ上げてきた。 「もう、どうでもいいや」  濡れないようにと潜り込んだ軒下を飛び出すと、全身に乱暴な雨を浴びた。  周りから見れば、僕は狂人に見えるだろう。あの日のように、空に向かって大口を開け、口の中に雨水を溜めてみた。大の大人がやることじゃない。でも、なんだか懐かしかった。  せっかくオープンできたのに。夢だったイタリアンの店。決して大きくない。きっと大儲けなんてできない。でも、夢を叶えることができた自分を、精一杯褒めてあげた。  それなのに……悪魔のような感染症が世界を覆い尽くすなんて。誰が想像できただろうか。当たり前の日常が破壊されてしまうなんて、誰が考えただろうか。  店をオープンした直後に襲った未曾有の事態。店は営業の自粛を迫られた。ランチだけは細々(ほそぼそ)と続けていたけれど、わずかな売上だけでは、とてもじゃないけど食ってはいけない。  身を削る思いで、一年近くを耐え忍んだ。でも、感染症の猛威が収まる気配はなく、国からの自粛要請はダラダラと続いた。頼みの綱だった国からの補助金も、なんだかんだと理由をつけられ、手元には入ってこなかった。  そして僕は、夢だった自分の店を閉じる決断をした。残ったのは多額の借金。それだけじゃない。自暴自棄になった僕を見捨てるように、妻と子供は家を出ていった。  僕は口の中の雨水を吐き出すと、どこに向かうでもなく走り出した。  大粒の雨が僕の体をバチバチと打つ。  あの日の彼女も、きっとこんな風に、出口のない憂鬱を突き破るために、無心になって走っていたのかもしれない。 「扉はどこだ? 扉、扉、扉」  気づくと僕は、念仏のように唱えていた。  容赦ない夕立。ピストルのような雨粒を受け、目も開けていられない。どこを走っているのかさえわからない。ただ、僕は、扉を探して、どこまでも走った。  息が切れ、立ち止まる。そして、薄っすらと目を開ける。四方八方は完全に真っ白だ。その目に飛び込んできたのは、ポツンと佇む扉。奇跡を前にした僕の耳には、もはや雨音すら入ってこなかった。  扉の前に立ち、呼吸を整える。  楽になれる気がした。救われる気がした。  すべての終わりを願いながら、ドアノブに手をかけたその時だった。 「行かないほうがいいよ」  背後で女の子の声がした。  まさかと思い、振り返ると、そこにはあの日の少女――僕の妹が立っていた。  彼女は笑っていた。 「助けてあげられなくて、ごめん」  根雪のように凝固した後悔と自責の念。ずっとずっと伝えたかったひと言を、ようやく解き放つことができた。  僕はすべてから許された気がして、わんわんと子供のように泣いた。  すると、さっきまで怒り狂っていた夕立が、まるで嘘のように止み、何事もなかったように晴れ間が顔をのぞかせた。
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