高槻 瑞香 ①

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 彼女の名は【高槻 瑞香】、今年で七十二歳を迎える。白髪を後ろで纏めた彼女の気品は麗しいと呼ぶに相応しい。そんな彼女の楽しみは日々の花の世話、そしてたまに遊びに来る息子と孫達に会うことだ。  彼女は高校を卒業後、事務として働いていたが結婚を機に退職し、その後は夫を支え、子を育てスーパーのパートに精を出していた。しかし、その最愛の夫を二年前、病魔が襲い驚くほどあっさりと死別してしまう。  どれほど深く愛そうとも、どれほどの積み重なった想いも全て簡単に無に帰してしまう。そんな病気や死、いずれ人は亡くなるという運命といったものを憎んだりもした。しかし息子や孫達のおかげで新たな日常を手に入れ今を楽しんでいる。  花の手入れをしていると、育てている花とは違う甘い香りが鼻腔をくすぐる。なんの香りだろうか? 彼女は気になって表の道路へ顔を覗かせてみて、香りの主はすぐにわかった。  表を歩く若き女性から漂ってくる。鮮やかな茶髪ボブを軽やかに靡かせ、白のワンピースを着ているその女性は同性でありながらも、瑞香の目を釘付けにするほど綺麗である。  どこへ向かうのだろうか? この先は住宅地を抜けて何も無い道を過ぎて近くの標高二00メートルほどの山に繋がるだけだ。手入れされているわけでもないので登山には適さない、そもそも彼女の格好が登山には向いていない。そう考えているうちにワンピースの女性の背中が遠くなってしまった。  時刻は15時、そろそろ夕食の材料を買いに出ねば。片付けを終え、買い物に出る頃にはワンピースの女性のことなど頭から抜け落ちていた。  自転車で慣れた道を走る。以前は車で買い物に出ていたが七十歳を迎えた節に、免許を返納し、夫との思い出が詰まった車は今では、庭でゆっくりと朽ちていくのを待っている。自転車で走るようになると、これまで気にも留めなかったものが目に入るようになる。路傍の名も知らぬ花、用済みになり捨てられ風に吹かれるままの缶、子供向けアニメのキーホルダー、その一つ一つが歩んできた運命を想像してみる。  瑞香は昔から空想が好きだった。一人で物思いに耽るように過ごし、きらびやかなお姫様の話を作り出しノートに書きためた。木が芽生え、割りばしになり、使われ捨てられるまでの木の感情を想像し、世の無常さを感じたこともあった。自転車に乗るようになって再び幼き頃の習慣が戻ってきたのだろう。  スーパーにたどり着いた彼女は真っ先に鮮魚コーナーへと向かう。子供の頃から肉はあまり好きではなく魚を好んで食べていた。今も、その時から好みは変わっていないことが窺える。何にしようか、たまには刺身にしようか。煮付けも悪くないが時間がかかる、明日作る用にも買っておこうか。頭を巡らせる。仕事も辞め、夫もとうに亡き今、貯蓄と幾ばくかの年金で、残りどれほどかわからない人生を乗り越えねばならない。そうなるともう少し安い魚にしようか。思案する瑞香に鮮魚コーナーの担当者が声をかける。  見るからに悩んでいた瑞香に向けられた言葉は、あくまでも本日のオススメの紹介であった。しかし、その担当者の青年、正確にはその声にドキリとしてしまった。かつて何度も聞いた声。愛しい愛しいあの声。聞き間違えるはずなどない、今はもう聞こえないはずの声。  呆然とする瑞香に青年はさらに声をかける。次はオススメ紹介などではなく、心配の言葉を。どれほどそうしていたのだろう。彼女はその声を脳内でしっかりと噛み締めていた。さながら、ホルモンのように噛んで噛んでを繰り返す、しかし飲み込むタイミングがいまいち掴みきれない。そんな感情が脳を包み込む。  青年が呼び掛けるたび、彼女の懐かしい記憶が甦ってくる。出逢いは二十一歳の頃、勤め先にあの人が営業として来た時。付き合い始めたのはその半年後、クリスマスを控えた雪の日。プロポーズは┃┃。  しかしその思い出も別人の呼び掛けによって中断させられてしまった。呼んでも反応が無く、困り果てた青年が別の店員を呼んでしまったのだ。その店員の声は瑞香にとって何の意味ももたない声。  彼女の邂逅は不本意な形ではあるが途中で終わり、慌てて買い物を済ませ家路へとついた。自転車を漕ぐ足は普段より軽く感じ、まるで追い風に乗ったかのようにスイスイ進んでいく。それはきっと、あの声に触れたからだろう。しかし浮かれていたのか、道に落ちていた小石を車輪が踏み、バランスを崩して倒れてしまった。  幸い、怪我はしなかったものの買ったものは散乱してしまい拾い集めることになった。家まであと数十メートルのところだったのに。  いい歳して浮かれた自分を恥じつつ、転がっていった玉ねぎを拾いにいった時、白魚のような透き通った腕が視界に入り込んだ。その手には転がっていた玉ねぎが握られている。  どうやら惨状を見て拾ってくれたらしい。一言お礼を言おうと頭を上げると、視覚より先に嗅覚が反応する。そして追い付いてきた視覚が映したのは、白のワンピースの女性だった。  瑞香はお礼にと、近くにある自分の家に招きお茶でもと誘う。一度はお礼などいらないと断られたがそこは押しきって了承を得た。瑞香にはお礼したいという気持ちも勿論あるが、白のワンピースの彼女と話してみたい、知りたいという気持ちが芽生えていた。  家までの残り僅かな距離を並んで歩く道すがら、瑞香はワンピースの女性の名前を尋ねる。女性は少しはにかみながら【鳥海 幸子】と名乗った。   なんて爽やかな香りなのだろう。瑞香は家で共にお茶を楽しむ鳥海の匂いに惹かれていた。  まだ若く見えるのに振る舞いは上品そのもので良いところの出であることは想像に難くない。カップを持つ右手人差し指で謙虚に光る指輪がその雰囲気を増幅させていた。  二人は他愛もない話を繰り返した。この辺りのお店のこと、
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